北島三郎
デビュ−したての昭和30年代後半、北海道から出てきて北島三郎は「なみだ船」をうたっていた。
船村 徹という作曲家の特徴が一番はっきり表われた曲だと思うのだが、彼の出自を考えればまことにピッタリの歌だったといえよう。
同じ頃に京都から、都はるみがデビュ−しているのだが、こちらの方は京都とは何の関係もない「あんこ椿は恋の花」であり、「あらみてたのね」であった。
その意味でいえば北海道生まれの北島が「なみだ船」で船出して「函館の人」で大ヒットとなったのはまことに幸せであった。
私は鹿児島育ちであるから北島とは全然、反対の土地なのだが、あの豪快にして細やかな節回しにはいつも感心していた。
だから昭和58年に外務省のシリアへの文化使節團に加わって、北島と一緒に行けたのは幸せだった。
たまたまNHKのシルクロ−ド第二シリ−ズ「海のシルクロ−ド」の取材班がシリア沖で古い沈船から、古代の壷を発見したのもシリアとの結びつきを強いものにしたのである。
シリアの首都はダマスカス、砂漠の中に忽然と現れたような街だった。
我々はそこで日本とシリアの文化交流の行事を行った。その目玉の一つが「北島三郎の歌」だったのである。声量ゆたかに、日本調の歌をうたい上げる北島三郎!恐らくは初めて見聞きしただあろう、シリアの人たちも、ヤンヤヤンヤの拍子であった。
歌が終っても人々は去らなかった。拍子と歓声が続いた。「これじゃ何かやらないとダマスカスの夜は終るまい」私はそう思った。
北島さんとバンドの皆に「鹿児島オハラ節やってください!」と私は言った。
熱帯の砂漠の真中に時ならぬ鹿児島オハラ節のメロデ−が響きわたった。
ご存知の方も多かろうが、このオハラ節の前奏をそのまま取り入れて、作曲家中山晋平は東京音頭の前奏とした。中山晋平の夫人は鹿児島出身の芸者歌手喜代三(キヨゾウ)姐さんであった。晋平さんは自らの愛人の愛唱歌から、新曲東京音頭の前奏を作曲したのである。
私はネクタイで鉢巻きをしてマイクをとった。アイム ノット アシンガ−。バット アイ キャン ダンス!何かそんなことをしゃべってバンドに合図した。
北島さんが歌い出した。皆も私のあとについて踊り始めた。シリアの砂漠の夜はなかなか更けなかった。我々はくり返し、くり返し鹿児島おはらを歌い続け踊り続けた。シリアの人たちも身ぶり手ぶりで輪となった。たのしい夜だった。
あれからもう20年過ぎた。
北島三郎は押しも押されもせぬ大歌手になった。私もNHKをやめて自由の身になった。
先日久し振りにサブちゃんに会った。
「又踊って下さいよ!」彼は大きな声でいった。
「いや−もう体が動かない!」あわれな私の声だった。
サブちゃんとはもう一度ヒットを飛ばしたことがある。
私がN響にいた頃、古賀政男さんが亡くなった。私たちは古賀さんの遺徳を偲んで、財団を作りその財団の行事として古賀賞を制定した。
星野哲郎、船村 徹コンビで津軽三味線の高橋竹山さんを主人公にして歌を作ろうとしていた。この歌を古賀賞に応募してもらったのである。
この歌「風雪ながれ旅」はまことにすばらしい歌となった。その年の古賀政男賞を獲得した。
その年の紅白歌合戦の大トリは北島三郎だった。彼は「風雪ながれ旅」を歌った。熱唱だった。
テレビのアップで見ていた私はハラハラした。舞台にふりそそぐ紙吹雪それは勢い余って北島さんのあの特別に大きい鼻孔を襲ったのである。