鎌倉の海をこよなく愛した出版人=小林 勇
1955年の12月4日5時過ぎに、郭沫若が鎌倉東慶寺に眠っている岩波茂雄の墓に詣でた。小林 勇らは暗い森閑とした墓域を二張りの提灯を頼りに進んだ。郭沫若は墓前で外套を脱ぎ長い間黙祷した。住職井上禅定の読経が低い声で流れた。墓参が終ったので、寺の方へ帰ることになった。小林 勇はその時までこらえにこられていた感情が爆発してしまった。提灯を投げ出すように誰かに渡してしまうと、たちまち鳴咽した。人々の足音がとおざかり、あたりは静寂な闇に包まれた。小林 勇は暗い中でしばらく一人泣いていた。
1937年郭沫若が戦乱の中国に帰った後、日本に残った三人の子供たちは、岩波の援助で大学を卒業出来た。
岩波茂雄が昭和12年に日中戦争が始まる前に、岩波茂雄が五つの中国の大学に岩波の全出版物を寄贈しようとした。
その時小林 勇は「間に合いますか」と言ってやや冷やかすようなことを口走った。それが事実になってしまったので、思い出す毎に、岩波にすまない気持であった。
それが実現したのは、戦後であり岩波発行の雑誌を加えると10万冊をこえるという。北京図書館や北京大学などの図書館に岩波書店発行の書物があるのはこのためである。
郭沫若は岩波の厚意に対する感謝の気持を表すために墓参したのである。
岩波茂雄は小林 勇の岳父にあたる。
小林 勇が岩波書店に大正9年の4月に兄につれられて、岩波書店で岩波茂雄と初めて会った。岩波茂雄は開口一番「金儲けを望むなら僕のところに来ても駄目だ。三省堂か東京堂にでも行き給え」と言った。
小林 勇は「誰がお金儲けをしたいといいましたか」と食ってかかった。すると岩波は「失敬した。明日から来てもらいましょう」と言ってその場で入店が決まった。
小林 勇、郷里長野県伊那の赤穂村から上京した16歳のことである。この時のやり取りは、二人の性格を象徴的に表わしている。古本屋から出発した岩波書店が日本の出版文化の一翼を担うまでになったのは、岩波茂雄亡き後、小林 勇という岩波書店の中興の祖とも言うべき小林 勇の存在なくして有り得ない。
出版事業は一種の「虚業」である。これまでにも多くの出版社が生れ、廃業してきたか分らない。関東大震災、太平洋戦争を経て今猶存続する陰には、経営手腕のある者がいなければ、やっていけない。小林 勇は編集者と経営的手腕をそなえた稀に見る出版人であった。
岩波と言うと岩波文庫を連想するてあろうが、これは昭和2年に発刊され、三木 清の手によるその発刊の辞は広く知られているところである。この三木 清を哲学の象牙の塔からジャ−ナリズムの世界に誘引したのが小林 勇であった。三木 清は小林 勇とは年もあまり違わなかったし、親しかったので、三木 清が獄中死した時は悲痛の念の深いものがあった。
現代日本文学全集で一歩リ−ドしていた改造社に遅れを取っていた岩波が、思い付いたのがレクラム文庫に範をとった岩波文庫であった。100ペ−ジ星一つ20銭。
小林 勇は僅か8年間で、出版の仕事をマスタ−し、独立して鉄塔書院という出版社を始める。
小林 勇は出版社にはいい著者がいるかどうかで決ると言っているが、岩波書店には漱石の門下生はじめ、少壮学者がいたし、多くの作家が岩波から本を出していた。そのため小林 勇は自然に著者と親しくなっていった。その代表的人物が幸田露伴であり、寺田寅彦である。岩波茂雄と露伴、寺田寅彦は、小林にとって終生変らぬ師であった。
一旦岩波茂雄のもとを去って、独立したが露伴、寅彦、小泉信三が心配し仲に入ってまた岩波書店に戻る。
日本の出版界が危機に見舞われたのは、戦火が激しくなってきた昭和19年頃からである。昭和20年に横浜事件が起き、中央公論や改造の編集者ら20人が検挙された。それまで自由の論陣を張ってきた中央公論社を壊滅に追い込む計画であった。
この一環としてその時に岩波書店の小林 勇も昭和20年5月検挙され、東神奈川警察署に留置され、拷問を受けた。酔っ払って、一夜警察に留置されたことはあっても、事実上初めて入獄しただけに、そこでの体験は小林 勇にとって得難いものがあった。「心配するな」には獄中の囚人の様子が生き生きと描かれている。
小林 勇は入獄した時、三つの誓をたてた。早くかえりたいと思わない。自分を卑しくしない。健康に気をつける。早く帰りたいという気を起こせば、必ず彼らに屈服してしまう。そうはいっても、家のこと、店のことを思う。「どこにいても同じだ」という気持になった。
入獄中に「牢名主」にであったことは、小林 勇のこれまでに出会ったことのない種類の人間で、この男を通じて「人間」を学ぶ機会を持った。
小林 勇が釈放されたのは、昭和20年8月29日。鎌倉の晩夏初秋は美しかった。「豚箱」の生活から解放されてみると凡てのものは清純でこんなによかったのかと考えるほどであった。
小林の釈放に続いて岩波茂雄の長男、雄一郎が死去。岩波茂雄が軽い脳出血で倒れた。終戦直後の岩波書店の社員は、13名に減っていた。小林の盟友三木 清が9月26日東京拘置所でひどい介せんのため、苦しみ、極度の栄養失調で死亡した。
昭和21年1月号「世界」が吉野源三郎の編集で創刊された。64ペ−ジの薄い雑誌であった。
昭和21年4月25日、岩波茂雄が死去。64年の生涯だった。小林 勇の「惜れき荘主人−一つの岩波茂雄伝」は岩波の2度目の発作(4月20日)から死に至るまでを克明に綴ったものである。岩波の死は岩波書店が復興の緒についたばかりで、その後の発展を見ずせずに亡くなった。
戦後の出版界を襲ったのは、紙をいかにして確保するかとインフレ対策であった。小林 勇は戦時中に上海に行った時に経験したインフレが戦後に大いに役立った。それに岩波書店の出版物が、殆ど戦争を高揚する種の書物を出版していなかった実績は、その後の出版活動にプラスに働いた。
昭和22年7月30日に幸田露伴が市川の菅野の寓居で79歳の生涯を終えた。露伴は昭和18年頃から信州、伊豆と戦火をのがれて市川に身を寄せていた。その臨終について小林 勇は「蝸牛庵訪問記−露伴先生の晩年」に詳しい。
小林 勇は言う。「私に物欲のない生活、心情を教えてくれた。露伴の底知れぬ深さを私が窺い知ることは到底出来ないが、私なりに摂取したものはあると思う。私は随分多くの優れた学者芸術家などにあったが、今にして思えば最も影響を受けたのは露伴のようである。」
これより先昭和10年に亡くなった寺田寅彦の全集の月報に書いたものを一巻の書にまとめたのが「回想の寺田寅彦」(昭和12年)である。小林 勇の最初の本である。
小林 勇が鎌倉に住むようになったのは、昭和13年であった。天気がよければ散歩する。山路の登り降りが億劫な時は、裏通りの細い道を選んで海岸に行く。鎌倉36年の間に海岸に来た回数は2000回位だろうという。
小林は自称し「鎌倉の海を一番好きな人間」と言っている。「大海の磯もとどろに寄する波 われてくだけてさけて散るかも」の源実朝の歌をくちずさみ遠い昔の海の忍び、今の海辺をかなしみながらいつも歩いた。
壮年の頃は5月半ばに泳ぎ出し、10月の終まで一人で由比ガ浜の海岸で泳いだ。特に海水浴客のいない淋しい海で泳ぐのが好きだった。日曜日には愛用のステッキを片手に、赤いチョッキを着て由比ガ浜の海岸に行き、砂浜で寝転んでボ−としているのが習慣になっていた。
そう言えば、生前一度小林 勇が一人で例のスタイルで、六地蔵のところで由比ガ浜に向かうところを目撃したことがある。見るからにテコでも動かないといった堂々とした歩武で、一瞬目を惹くものがあった。
小林 勇は晩年の心境を次のように随筆に書いている。
「高速道路は砂浜を狭め高い石垣は海と人間を遮断した。小坪湾の埋め立てによって巨大マンションが建設され、由比ガ浜から遠望する逗子、葉山の美しい景色は永遠に失われてしまった。
戦争が終り、次第に忙しい日々を送るようになった。そして近年鎌倉にたくさんの人が押しかけるようになると、海岸も山路騒々しくなり、汚くなった。私も老境に入って、もはや冷い海に浸ることもなくなった。しかし海は懐しく、ことに冬の日の夕方、人のいない浜を愛する心はいよいよ深くなった。
私は夕焼けの空の下を歩きながら、その美しさに、いまさらにおどろいた。今までに夕焼を何百回も美しいと思ったにちがいない。しかも晩年になって見るごとにその美しさを痛切に感じるようになったのは、何故であろうか。それは単なる老境の感傷とは思わない。このことに気つ゛いたのを幸せに思うようになった。自然の美しさを味わうことができるようになることは、同時に、世の中の美しいものを発見し楽しむ資格が出きたように思われるからである。
思えば、長い間夢中になって仕事をし、いらいらし、怒り、苦しんできた。そしていま残りのときの少ないのに気つ゛きながらもあわてることはない、私は日ごとに美しいものを発見しているではないか、と思った。
「人生不満百 常懐千載憂」寒山詩の一句を私は愛する。
人は年ごとに、年とってよくならなければならない。それには日々を充実して過し、己れをごまかしてはならない。自分の中に泡立ち渦巻いている汚れないものから目をそらしてはならない。世の中の不正を憎みたたかうと同時に自分とのたたかいを避けることはできない。この長いたたかいをまともに経てきた人間だけが夕映えの美しさを真に味わえるだろう。若いとき見ることの出来なかった美を、すべてのよきものを見抜きうる力を、蓄積してきた老年こそ讃美してよい。それは決して富の中にも権力の中にも育たないであろう。」
戦中、戦後の出版人として出版界に足跡を残した外に小林 勇は随筆を多く書き残している。小林自身も自負しているように記憶がいいので、過去に体験したことを鮮明に記憶している。特に多くの学者や芸術家に出会って、その回想記を執筆しているが、その人物の長所も短所も書き記しているが読後感はいい。小林 勇は人間は所詮孤独な存在であると言った人生観を、根強く懐いていた。故にいかなる人物にも愛情が注がれていて、偏らない人間観がある。なんとなく暖かいものが感じられてどの一編を読んでも心に響く潤いのある随筆となっている。
小林 勇の書いたものの中には、泣く場面がよくあるが、こんなに臆面もなく書いてあるのも珍しい。昼間の仕事では小林 勇は強引で辣腕ではあるが、それはビジネスの面だけであって、一歩仕事を離れると、優しい心が出できて、それが随筆になって表れて独特の風格となっているのである。
戦後の岩波書店にも一般の会社同様に労働問題がのしかかってきた。労働組合が出来たことで、労働者の待遇改善は戦前とは違って格段によくなった。経営者側に労働問題に理解のある吉野源三郎がいた。また小林 勇は入店当時は12時間も働いた経験を持つだけに、会社の経営者になって双方を理解できる立場にあったので、進歩的考えを持っていた。
戦後の岩波の新規事業は「文化映画」「科学映画」である。映画のことはなんの経験も成算もなく夢中で始めてしまったという。これが発展して岩波映画製作所が誕生した。昭和25年のことである。
小林は16歳で上京して、岩波書店に入ったので、特に学歴はないが、岩波書店に出入りする当代の一流の学者や芸術家と接触しているうちに教養や知識を学び、その人間性に感化され自分を磨きあげたのである。言わば岩波書店は小林 勇の「大学」であったのである。良き主人、良き師に恵まれた小林 勇の生来の聡明さによって出版人、随筆家、画家が誕生したのである。
小林 勇が最初の個展を中谷宇吉と銀座の文春画廊で開いたのは昭和34年の4月である。小林 勇の絵を見て、「小林は器用な男だ」などと言う風説が耳に入った。しかし小林 勇が絵を描き始めたのは昭和17年であるあから、17年間師につかず独学で、仕事の合間を縫って、絵筆を執っていたのである。
岩波茂雄亡き後次男の岩波雄二郎を社長とし、専務で采配を振るってきたが、昭和37年に会長に退き後進のやっていることを見守る立場になった。その会長も辞しその後は画境に三昧の生活を送った。絵ほどその人の生活態度が如実に表れるものはないという。品性が卑しければ、絵にそのような絵になる。小林 勇はうまい絵を描こうと思わず、いい絵を描こうと努めたという。小林の絵は文人画である。
小林は昭和の出版界の裏表を見てきた出版人である。明治時代以降多くの名編集者が出たが、小林 勇ほど多くの学者、芸術家のエピソ−ドを書き残し、そうした人たちの知られざる面を読者に教えてくれた出版人はいない。もう今後は小林 勇のような編集者、出版人は出ないであろう。それだげに小林 勇の回想碌は貴重な資料となろう。
1980年に栗本和夫の「一図書館の由来記」の紹介記事を文芸春秋の随筆欄に執筆後、栗本和夫に遅れること3ヵ月で死去、享年77歳。墓は東慶寺にある。