古賀政男

 昭和初期の「影を慕いて」、「酒は涙か溜息か」に始まって、昭和も末の60年代に「柔」、「悲しい酒」という一連のひばりのヒット曲を作った古賀政男ほど息の長い作曲家を見たことがない。

 大体、モ−ツアルトなどの例で見るように、作曲は若い才能が最もよく開花する芸術分野である。

 日本人でも瀧 簾太郎などが「早熟の天才」といわれているように、音楽の天才は若くしてうんと若い時高みに登ってしまう。

 そこへ行くと古賀さんの作曲家としてのキャリア−は抜群に長い。しかもその曲風はまことに千変万化で、演歌的悲しみに満ちているかと思うと行進曲風あり、若さの発露ともいうべき「丘を越えて」があったりする。

 神楽坂はん子で「芸者ワルツ」で大当たりしたかと思うと「東京五輪音頭」が出てくる。もうそろそろ、と皆が思う頃、つまり老境に入ってから「柔」が出る。そのイキの長さ、そのみずみずしさ、古賀さんは最後まで「水気」を失わなかった作曲家だといってよい。

 その古賀さんとは昭和三十年代のはじめにお会いした。私が企画制作演出した、テレビ番組「黄金の椅子」にご出演いただくためである。当時私のアシスタントをつとめてくれていた明大マンドリンクラブ出身の相茶(アイチャ)君という人が、古賀さんの弟子のような存在だったから、彼と二人で代々木上原のお宅に伺ったのである。

 今は旧宅はとりこわされて、博物館になったからその面影を偲ぶよしもないが、井の頭通りに面して正門がありその門を入ってず−つと敷石道がつながっている。その道が何と100m!と私には思われた。(実際はせいぜい60mであろう)

その長い上りの道を上ってゆくと古い日本式洋館の玄関に辿りつく。

 ゆったりとした応接間に通されると、そこの椅子はすべて赤い「革ばり」の豪華なものだった。

 古賀さんはニコニコしながら、現れた。そしてあのやさしい口調で「「黄金の椅子」をやってくれるんだって!ありがとう。アイチャ君たのむネ」とおっしゃる。何とも目がやさしい、口調がやさしい。まだ新米のプロデユ−サ−には、きわめて眩しい光景だった。

 それから場所をうつしてレッスン室で打合せした。かって藤山一郎が、霧島 昇が、神楽坂はん子が、村田英雄が、レッスンをうけた。ピアノのある大きな部屋だった。考えてみればそれはそのまま、日本の大衆歌謡曲のいくつかの誕生した部屋であった。

 結局「黄金の椅子」−古賀政男ショ−は3回続けて放送することにした(当時はすべてナマ放送)。それ程膨大な量の曲があった。それ程豊富な作曲家としてのキャリア−があった。あの膨大な曲が生まれるまでの面白いお話があった。古賀さんは、あのやさしい口調で昔を語り、今を語り、興のっていくつかの曲を歌って下さった。しぶい、すてきな節まわしであった。

 代々木上原のお宅にはあれから何回伺っただろうか。

 私が初めて伺った昭和31年からむしろ古賀さんの大活躍が始まっている。美空ひばりとのコンビで大ヒット曲が次々と生まれた。

 古賀さんは、初めの結婚で失敗している。それは遂に離婚に至った。そして古賀さんは、それを一つの糧のように猛然と曲を作り出された。生涯作曲の数は5千数百曲、しかもその中でヒットの数の多さでは、並ぶ人もない。

 一寸、暗い、しかし豪華なあの代々木上原のお宅のあの赤い部屋から次々と生み出された大衆歌曲の数々。

 私はそこに実はひとりぼっちの感懐をもちながら、すべての人々にやさしかった古賀政男という一人の男の姿を見る。