女優 ボランテイアの草分け=小暮実千代

片瀬の密蔵寺の境内に、小暮実千代が植えた愛染かつらの木がある。愛染かつらと言うと松竹映画「愛染かつら」(1937年)を思い起こすであろう。医師津村浩司(上原 謙)と看護婦立石かずえ(田中絹代)のメロドラマで戦前、天下の紅涙を絞ったヒット作品である。映画の中でこの二人が谷中の寺の 愛染かつらの木の前で 願いごとを書いて、この木に結ぶと成就する言い伝えがあると津村が言うシ−ンがある。この映画の続編に小暮実千代が、看護婦の一人としてワンカットで出演。小暮実千代にとっては映画のデビュ−作である。

小暮実千代は下関で1918年1月に生まれた。女学生時代から「令女界」に投稿していた文学少女であった。女優志望の意志がなかったが、兄の友人小泉 が勝手に映画会社に写真を送った。しかし惜しくも3位で、採用に至らなかった。上京して明治の文学部に入ろうとしたが、試験に間に合わず、日大の芸術学部に入学。

在学中に江ノ島のカ−ニバルで「弁天さん」に扮して、芝居に出た。その時 片瀬の密蔵寺に合宿して、飯塚友一郎らの演技指導を受けた。「弁天さん」が松竹の撮影部長の目に止って、松竹に入社が決定。まだ在学中であった。そのような経緯から、1957年小暮実千代はそのことを記念して、愛染かつらの若木を植えた。それが今では大木に成長している。

小暮実千代が入社した当時は高峰三枝子、桑野通子、水戸光子らが幹部であったが、一年余りで準幹部から、幹部に昇進。庶民的人気と言うよりは大学生などインテリに人気があった。1941年に従兄 和田日出吉と結婚。「女の宿」で主演。

戦争が激化すると、派手なヴァンプ役が回ってこず、夫のいる満州の新京〈長春〉に行く。在満中は李香蘭と「迎春花」で共演。新京で終戦を迎え、苦難の生活を送って、1946年9月に帰国する。

1949年「青い山脈」で芸者役、中年年増役で脇役ながら、観客に強い印象を与えた。「花の素顔」、「雪夫人絵図」でその持ち味をいかんなく発揮した。1950年には大仏次郎原作「帰郷」が佐分利 信との名コンビで、ベストテン2位に選ばれ、記念すべき作品となった。1951年には獅子文六原作「自由学校」(大映〉に出演、高峰三枝子の松竹版「自由学校」と競演、話題をまいた。この頃が小暮実千代のピ−クと言ってよく、「成熟しきった女の豊満な肉体」、「終戦後最も目立つ女優の一人」と評された。1956年には溝口健二監督「赤線地帯」で失業者の夫を持つ売春婦を見事に演じた。また日大OBの映画「夜間中学」に出演した。

また舞台でも尾上松緑と共演。テレビでも、司会を務めたり、コマ−シャルに長期出演したりして活躍。自ら「小暮劇団」を率いて年三回地方公演を行い、社会福祉運動の資金集めに奔走した。

小暮実千代は終戦直後、有楽町のガ−ド下で靴磨きをしていた戦災孤児に、[寒いでしょう。さあ、これでなにかあたたかいものでもおたべなさい。くつはみがかなくていいのよ。からだにきおつけてね。]と言って百円札を二枚渡したことがあった。その少年が後になって、アメリカに渡り、苦学して大学を卒業し、高校の教師となった。この少年は後年小暮実千代と交流があり、余命いくばくもない小暮実千代に会うためにアメリカから、帰国して再会を果たす。

1957年には群馬県の「鐘の鳴る丘少年の家」の後援会長になり、1987に法務大臣認定の保護司になった。1980年には日本中国留学生研修生援護協会常任理事になり、中国留学生を自宅に寄宿させたりした。こうした一連のボランテア活動はどこからきているのであろうか、出生当時から、恵まれた環境に育ち、映画界に入っても下積みの経験がないのにこのヒュ−マニズムは、中国での異常な体験と生来の性格があいまっての事であろう。

かっての映画界における「良きライバル」高峰三枝子の息子が1977年覚醒剤容疑で検挙されたことがあった。四面楚歌に立たされた高峰三枝子親子に暖かい手を差し伸べ、保護司として高峰三枝子の息子を監督下に置き、立ち直らせたこともあった。この二人は1918年の同年生まれ、小暮実千代が1月、高峰三枝子が12月で、死去したのも同じく1900年で、小暮が6月、高峰が5月でともに72歳の生涯であった。

小暮実千代は、まだボランテイアという言葉も活動も一般化しないときから、地味なヒュ−マンな活動を女優業という多忙な仕事をしながら、死去するまで続けたことは称賛されていい。