短くも理想的親子=「海軍主計大尉小泉信吉」

「信吉は大正7年1月17日、鎌倉町笹目谷の吾妻産婦人科病院で生まれた。私は31、妻とみ子は24であった。

 私はその前々年の春、5年に亙る欧州留学から帰朝して慶応義塾の教授となり、その暮に結婚して、鎌倉駅の正面の方向に34町離れた、小町331番地に借家して、新世帯を持っていた。、、、、、、、」

 この「私」というのは小泉信三であり、「信吉」は、25才の若さで第二次世界大戦中、南太平洋方面で戦死した小泉信三の一人息子である。

「海軍主計大尉小泉信吉」は、子供の時から憧れていた海軍に志願して、昭和17年10月に戦死した我子の鎮魂歌である。戦場に赴く信吉に、小泉信三は次の様な手紙を手渡す。

「我々両親は、君に満足し、君をわが子にすることを何よりの誇りとしている。僕は若し生まれ替わって妻を選べといわれたら、幾度でも君のお母様を選ぶ。同様に、若しもわが子を選ぶということが出来るものなら、我々二人は必ず君を選ぶ。人の子として両親にこう言わせるより以上の孝行はない。君はなお父母に孝養を尽くしたいと思っているかも知れないが、我々夫婦は、今日までの24年の間に凡そ人の親として享けうる限りの幸福は既に享けた。親に対し、妹に対し、なお仕残したことがあると思ってはならぬ。今日特にこのことを君に言って置く。、、、、」

 信吉は海軍経理学校を卒業して、海軍に入って正味10月足らずで、数通の葉書と34通の手紙を戦地から、小泉邸に送ってきている。このことから判るように、筆まめで、閑があると手紙を書く習慣を早くから身につけていた。

 又古雑誌が好きな男であり、父親の家に書籍と古雑誌があったということは、信吉の幸福の中に数えたところであったろうと小泉信三は言う。史癖があり、自分の生まれぬ以前の時代の世相や思潮に無限の興味を懐いていたフシがあった。

 信吉が戦死した後、信三は生前信吉が使っていた部屋に入って、古い蓄音機で音楽を聴くことがある。その蓄音機の蓋を開けると、使用済みの針の容器には、さきの磨れた鋼の針と短くなった三陵の竹の針が一杯に詰まっている。其の頃はもう、鋼の針が手に入らなくて信吉は曲の種類を問わず、竹針ばかり使っていた。一度使っては裁断鋏できり、きりして、しまいには機械に挟めなくなるほど短くなると始めて捨てた。その竹針の切り屑がその辺に散らばったままになっている。

 この蓄音機を買った経緯は次のようなことであった。信三がアメリカに数ヶ月行った時、娘にはお土産を買ってきたが、信吉には何も買って来なかったので、母親にせがんで買ってもらうように信吉に仕向けたが、母親は首を縦に振らなかった。日常母親びいきであったので、強く言えない信吉は、信三に向かって、「お父さまは無責任だよ」と言って扇動者たる父親に責任をおしつけた。信吉19才の時のことである。

 信吉が誕生したのは、通称「おんめさま」と呼ぶ、安産の護符を出す寺の門前とも境内とも言える所であった。月満ちて生まれたのでなかったから、わずか605匁で、体温が低く、湯たんぽ3つで暖めなければならない赤子であった。

 信三夫妻を喜ばしたのは5ヶ月ばかりであった。当時鎌倉には小児科の専門医がなく、信吉が急に具合が悪くなったので、東京に入院させたが、生命の保障は医師の口から聞かれなかった。だが奇跡的に助かって、3月半後に鎌倉の自宅に帰って来た。

 25年後信吉の戦死の報が届いた時、小泉夫妻は信吉の入院の日のことを思い出して、「あの時死ぬべき子であった」と言う意味のことを言い合った。

 戦死の知らせを聞いた後、鎌倉山の山荘にいた信三の姉は、「呼びつづける今日も暮らしぬ美しさ 紅葉を見ても青空をみても」と詠んだ。その姉は信吉の病院の枕頭で、祈祷を捧げつつ、一滴一滴乳の滴を唇に垂らしたのであった。

 信吉が戦死して一周忌の逮夜に、小泉信三は親戚の前で「信吉は叔父伯母に愛され、従兄弟の人たちと相親しみ、そうした親類を持つことを誇りとしていた。親の目から見て、どんな特徴があったかわからないが、よく笑う男で、また笑いを好む男であった。だから、今晩も笑って下されば、信吉は何よりも喜ぶだろうと思う」と語った。

 その翌日、義弟から歌一首が送られて来た。「笑うこと好みし子ゆえ笑ひねと 父の語るを聞けば泣かるゝ」

 大正時代に生まれた世代は、学徒動員や徴兵に駆り出されたて、負傷したり、戦死したものが多かった。前途有望な青年が、軍国主義の国策の犠牲になり、各々の才能を十分発揮することも出来なかった。青年たちは無念であったろうし、国家としても大きな損失であった。

 小泉信三の壮年期の写真を見ると、歌舞伎役者を思わせるような立派な面貌と体躯を具えていた。昭和6年に46才の若さで、慶応大学の学長に就任し、昭和8年には専門の経済学とは別に「師 友 書籍」を上梓し、公私共に順風満帆であった。

 小泉信三は空襲で顔面に大火傷した後は一変した。路上で頑是無い子供が、小泉信三の惨い形相を見て、「こわい」という声を発するのを聞いたこともあった。小泉信三は戦後一時、閉居して外出する気になれなかった。だが、心機一転又以前の様な気持に立ち戻って、公的の場所にも出席するようになった。

 昭和22年に塾長を退任してから、雑誌「新文明」に毎号執筆するようになった。海軍主計大尉小泉信吉」は昭和21年に私家版として300部の限定出版で、知人、友人に配られたものである。小泉信三の生前には公刊が許されなかったので、「幻の名著」として回覧されていた。獅子文六は「海軍主計大尉小泉信吉」を小泉文学の最高傑作と評した。