相馬黒光、その人生の転機に関わった鎌倉

 

 相馬相蔵と共に新宿の中村屋を作った相馬黒光が、宗教から文学に目を転じ、又文学を捨てて信州の相馬家に嫁ぐ決心をしたことは、鎌倉と深い繋がりがあった。

 相馬黒光(星 良子)が仙台の宮城女学校時代の先輩に伴われて、星野天知の家を訪れたことが縁で、鎌倉笹目が谷戸にあった別荘「暗光庵」に出入りするようになった。天地のライブラリ−を開放して貰い、自由に文学書を閲読する機会に恵まれた。そこで落ち着いてはじめて自分の書きたいものを執筆する環境を得た。

 文学書に多く接することによって、幼い頃から、キリスト教に親しんできた黒光は、宗教に対して懐疑的になっていった。キリストの神格を認めず、人間としてのキリストに目を向けるに至った。 

 その結果、それまで通っていた横浜のフエリス女学校の校風に飽き足らず、芸術的雰囲気が横溢している明治女学校の方に魅力を感じるようになっていった。

 黒光は宮城女学校の校長の独断的教育に反対して、退学を命じられた先輩達の後を追い上京して、フェリスに入学したのである。

 当時のフエリスはミッションスク−ルとして、一部の女学生たちの憧憬的存在であり、校内の設備が完備して雰囲気が、西洋風で貴族的であった。ただ女学生達の言葉遣いは、浜ことばの影響か荒っぽく違和感を懐いた。

 ここで、教師達を尊敬していた黒光は、教師達からも愛された優秀な学生であった。「雷」という英文を翻訳し、教師の紹介で宗教の雑誌に掲載され、初めて50銭の稿料を受け取った。それだけに黒光にしては去り難い学園であったのであるが、寮生活などの規律に黒光の自由な考えとは相容れないものがあって、留まる気になれなくなった。 

 明治女学校は、キリスト教にのっとってはいるが、芸術至上の精神を盛り込んだ自由の学園であった。校長は巌本善治で、教師陣には、星野天知、島崎藤村、北村透谷、戸川秋骨、馬場孤蝶、平田禿木がいた。

 これらの若い教師で、少壮の文学者達が、中心となって雑誌「女学雑誌」が編集されていた。この雑誌は、キリスト教による社会改良、女性啓蒙を目的としたものであった。巌本善治の妻の若松賤子が、小説、童話を書いたり、「小公子」「小公女」など欧米の児童文学の先駆的な翻訳をしていた。

そこから発展した「文学界」は、高踏的芸術性によって進歩的女性が競って読んだ。黒光もその一人であった。

 折角入学したフエリスを退学して、明治女学校に再入学する理由は、複雑で内面的な事情なものであるだけに、母親(この時、父親はすでに死亡していた)や学校のことを考えると一人心が痛んだ。

 その頃、病気と称して鎌倉の天知の「暗光庵」を訪れ、唯一の憩いの場所とした。心が病んでいて健康になれず、体はフエリスにありながら、心はすでに明治女学校にあるといった精神的葛藤の日々が、数ヶ月続いた。そしてこの苦悩に光明を見出すことの出来たのは、天知の助力によるものであった。

 黒光は、笹目の「暗光庵」に通っているうちに、番人のじいやと二人で留守番をしながら、勉強することが出きるようになった。

 その頃の鎌倉は浄寂の気が満ち、どっと山を鳴らす潮風は日蓮上人の辻説法をしのばせ、谷戸の麦畑は鎌倉武士の姿を彷彿させ、また誰しも自ずと彼の薄倖な金かい集の歌人のころを思いやらぬものはなかった。いつもひっそりしている鎌倉駅、あれから大町を通っていっても麦畑や豆畑の間にちらほら物を売る店があるだけで、長谷の大仏を見に行く人のくるまが、時々二三台つづいて通るくらいのもので、ほんとうに煙わたるような好ましい田園風景だった。浪漫的な娘心にそれよりも人気の離れた裏道を選んで山際にそい、松籟にきき入り、翠らんの間をいく曲がりかして笹目ヶ谷戸に入って行くと、秋はその細い道をすすきが覆い、昼でも虫が鳴いていた。そしてこつこつと石を伝うてのぼって行くと、南画風な展望をさえ樹林にさけて全く外界の塵を絶ち、ほんとうに山ふところというような所に小さな藁葺屋根が見え、茶室風な構えの中に、はじめて二三人の人がいるのが分かるのであった。

 黒光はここで明治女学校の才媛たちとよく出会った。彼女たちは今紫の羽織、今紫のリボンの装いをしていたが、気障といえば気障であったが、至って真面目な女学生たちで、羨望の目で眺めていた。

 黒光が鎌倉の「暗光庵」に逗留していたある日、佐々城信子が国木田独歩と連れ立って訪れた。佐々城信子は、黒光の母親の妹である豊寿の娘である。日清戦争中「国民新聞」の従軍記者として「愛弟通信」で一躍有名になっていた独歩と恋愛し、結婚したばかりの頃であった。

「欺かざるの記」の明治28年11月20日の記には次の様に記されている。

「午後信子と共に鎌倉なる星良子嬢を訪問せり、嬢は信子の従姉なり、明治女学校に今夏入校したれども、もと横浜女学校の学生なり。病を養うて鎌倉なる星野天知氏の別業にあり。別業を辞して門を出づれば、朧なる三日月山の端にかかりぬ。遠近の暮煙何となく哀れをこめたり」

 この時初めて黒光は、独歩と信子が逗子にいることを知った。黒光は、叔母で、明治初期の男装の麗人である佐々城豊寿を頼って上京したことから、独歩と信子の許されざる結婚の顛末を早くから知っていた。

 一般的には、独歩と離別した後、有島武郎の「ある女」のモデルとされている信子は、「悪女」のようにみられているが、その未婚時代は、賢しいこと器用なことでは国光などの比ではなく、来客の接待態度といい豊富な話題、無邪気でいて誇らかなそして洗練された姿態、信子が顔をだすと、一座がぱっと華やぐといった存在であった。

 黒光は両者の間にあって黒「光だけが知っている事実もあり、片や従妹であり、独歩の文学的才能に敬していただけにその板挟みにあって悩んだこともあった。

 黒光は、行く行くは文筆で身を立てる積もりでいたのだが、その頃雑誌に発表した小説が、あらぬ波紋を呼んで、文学に絶望している時であった。

 この頃、仙台で幼年の頃から教会で世話になっていた島貫兵太夫から、結婚話が持ち込まれた。相手は信州の在に住んでいて、禁酒運動しており、養蚕に関する本も出している立派な青年だという。愛蔵が黒光のあらぬ風聞に微動だにしなかったことが黒光の気持を固めさせた。

 黒光は又天知の「暗光庵」を訪れ、数日の休息をかねて、最後の独身時代に別れを告げるのである。由比ガ浜に出たり、山から山に歩いてみたり、ひたすら切ない思いを慰め、その思いの末を見定めようとした。眼前に同色に日焼けした漁夫が、妻子とも総出で網を引いていた。農婦は畑中の細い径で、坐って子供に乳房を含ませ、その夫は掘り出したばかりのいもをたき火にくべて焼いている。

 すべて世に何事もなく、うららかに涙ぐましく、そこにあの独歩に教えられたワ−ズワ−スの詩を想い、自分の憧れているもの、それは都会を離れた田園の中にあるのでないかと頻りに想った。そして今は心を空しくして、世の習わしに従い、人の妻となろうと決心するのであった。

 農婦として数年後には農村の実体を知り、再度上京して、本郷に中村屋を開店した。程なくして当時は人家もまばらな新興の街、新宿に店を出してから、相馬夫妻の筆舌に尽くし難い、苦闘の人生が始まるのであるが、鎌倉は黒光にとって、淡き夢を見ていた乙女時代を過ごした忘れ得ぬ土地であった。