空しくも美しく怨念の消えた話

 

 27歳の時菊池 寛と喧嘩して、文壇を放逐された今 東光が雌伏32年後、「お吟さま」で直木賞を受賞した時は、かっての文壇を牛耳っていた菊池 寛も戦後追放に会い、自ら創った「文芸春秋」を退いて鬼籍にはいっていた。

 若い頃、不良少年だった今 東光が、芥川竜之介によって菊池 寛に紹介された時、菊池 寛は「ふうん、これが有名な不良少年かね」と言った。又第五次「新思潮」の発刊の折り、同人に加えようとした時、菊池 寛は「あれは不良少年じゃないか。中学さえ出ていないくせに、君たち仲間のような顔をして、大学の教室へ出入りしているという話だ。「新思潮」は元来、一高と帝国大学の卒業生で作られている。今 東光のような不良少年に参加させるのは、伝統に傷をつけるものだ」と言って反対した。

 だが川端康成が「今君を仲間に入れられないなら、「新思潮」をやる訳にはいきません」と言われて、今 東光の入会を認めた。「新思潮」に掲載された今 東光の随筆を読んだ菊池 寛は、その才能を認め、新たに創刊する「文芸春秋」に加わるように誘った。そして弟子を持たないことで有名な谷崎潤一郎に「谷崎さんも、今のような男を弟子に持っているとは、さすがだね」と言うまでになった。

 ところが、どうした経緯の違いか判らないが、両者が互いに反目しあうようになった。敢えて推測するとすれば、文芸春秋社発行の「文芸講座」に今 東光の名がなく、川端康成、石浜金作、鈴木彦次郎等には文学士の肩書きが付されていた。

 しかし実際なにが原因で、両者が仲たがいになったかはナゾである。今 東光は「文芸春秋」を脱退して、転々と雑誌の同人を変えながら、菊池 寛を攻撃した。「文芸春秋」では直木三十五が今 東光に応酬し、誌面を通じて熾烈な人身攻撃が展開された。だが次第に今 東光は文壇から孤立を余儀なくされ、仏門にはいるのである。昭和5年のことである。

 今 東光が直木賞を受賞した後、数年して今 東光、日出海兄弟の母親が亡くなり、納骨に多摩墓地を訪れた時偶々、墓地の松林を歩いていていると、菊池 寛の墓の前に出た。

 今 東光はかっての好敵手がいまは静かに眠っている墓前に跪いて、経文を捧げた。菊池 寛は地下で、「今君、もういいよ。わかったよ。短いお経で沢山だよ」と言いながら、袂にじゃらじゃらと音を立てている銀貨を鷲掴みにして、御布施を出さないと気がすまないような顔をしているように思ったという。ここに長年の怨念が図らずも氷解したのである。

 菊池 寛の名作に「恩讐の彼方に」がある。主人中川三郎兵衛の愛妾お弓との仲がわかられ、主人を刺殺して市九郎はお弓と逃亡する。が強欲なお弓に絶望して、出家する。了海と名乗って全国を巡っている時に,豊前耶馬渓の難所の墜道開削に打ち込む。そうしているうちに、父の敵討ちに中川実之助がやってくる。だが今は親の敵が、人のために無心に開削している姿を目の当たりにして、中川実之助も協力すると言うスト−リ−である。