古関裕而

 この原稿を書いている時、2000年のシドニ−、オリンピックが始まった。何だかんだといわれても、やはりオリンピックはオリンピックである。この時期日本中がある種の「熱」にうなされる。私もその一人で、今回も又予定をはるかにオ−バ−した開会式にもそのあとの競技にも全部おつき合いした。

 四年前のアトランタでは、会長だったから、正式なI O Cの招待をうけて、メインの席でたっぷり実物を見た。目の前で見た現実の開会式は少々間のびしたところがあったがやはりたのしかった。

 それは五輪のマ−クが象徴するように世界中のすべての人種が宗教を越え、政治を越えて一ヶ所に集るところにあるからだろう。アトランタの時もテレビ観戦の今回も、数々のショ−をのりこえて色んな色や考えの違った人間たちが、一同に会した興奮は感ずることが出来た。

 さてオリンピックといえば私の記憶の第一番目によみがえってくるのは、オリンピック開会式であり、その中でも選手入場の時の行進曲である。

 今でこそ全体の進行には各会場の自由度が極めて多くとり入れられているが、昔はそうでなかった。

 1964年(昭和39年)の東京オリンピックは私がスタッフの一人として参加したオリンピックであるが、そのきびしさと豪華さに相当な緊張を覚えた。

 当時私は入局14年目、音楽部の副部長だった。東京五輪の開催がきまって担当を命ぜられた。長は近藤積(つもる)さんといって音楽関係のあの紅白のそもそもの企画者であり、数々の名番組を作られた方である。

 近藤さんの下で私に命ぜられたのは、オリンピック迄の音楽の仕事として「東京五輪音頭」なるPR曲を作ること。本番に当っては東京五輪に最もふさわしい行進曲を担当すること、の二つである。

 私は近藤さんのアイデアに従って(1)東京五輪音頭は一般公募の歌詞を選定して当時の大御所 古賀政男に作曲を依頼すること。出来た曲は著作権を開放して全レコ−ド会社に競作させること。

(2)入場式用フアンファレ−と行進曲は古関裕而さんに委嘱することである。

(1)は島根の宮田さんという方の応募曲に古賀さんが作曲して、各社が一斉に競作した。

 下馬評では新人 橋 幸夫のビクタ−盤優勢、ということだったが、蓋をあければ三波春夫のテイチク盤の圧勝となった。音頭ということでやはり三波のもつ、日本古来のフシまわしが人気を呼んだのだろう。

 (2)は古関さんが快諾されて出来上った曲はフアンフア−レも行進曲も「名曲」といってさし支えないすばらしいものだった。今でこそ行進は各国バラバラで足並など揃わないが、当時はベルリンオリンピックの軍国調のイメ−ジが残っていて、勇壮な「行進曲風」のものが最も好まれた。

 古関裕而さんは福島県の人、商業学校を出て独学で作曲を学んだ人、極めて素朴な人でちょっと吃音があった。そのどちらかといえば、すっきりしないお方から、生み出されてくる音楽はアッと思わせる強烈な個性溢れるものだった。その曲調は時に勇壮で時に悲壮感溢れるものだったから、戦時中の軍歌に古関さんの曲が極めて多かったのは当然だろう。

 我々が注目したのは五輪以前にNHKラジオのテ−マ音楽として。そして作曲された古関さんの曲である。戦後のNHKのスポ−ツはすべてこのテ−マ曲のあとに実況放送された。だから我々が古関さんの行進曲に期待したのは当然だが、古関さんは見事にその願いにこたえて下さった。

 長い秋の雨がカラリと晴れ渡った1964年10月10日、鈴木文弥アナウンサ−は「今日の主役は太陽です」という名文句で実況を始めたが、ギリシャを先頭に大選手団の入場の時、朗々とリズミカルに、かつは日本人の悲願をこめるかのように響き渡った「オリンピック行進曲」、それは当時の日本人の胸をうった。

 古関さんはずっと世田谷の代田に奥さんとお二人で住んでおられた。何回かお会いした。そのたびに訥々とお話をなさった。あの少々きつい吃音が、オリンピック行進曲の勇壮な音色とともに私の耳元によみがえってくる。やはり古関祐而さんは永遠である。