一通の投書から105才の英文学者を見取る話

 

 先日、民謡の守門者、竹内 勉氏から、「工藤翁が5月20日午前8時6分、私の前から消えました。105才8ヶ月でした」と言う手紙と近刊の「生きてごらんなさい、(7)卒寿の母と都をどり」が送られて来た。

 工藤翁とは元早稲田大学教授で、年配の英文学徒には「西洋古典物語」や「武蔵野のほとりで」で知られる英文学者である。工藤翁と竹内氏が知り合ったのは、竹内 勉氏が担当しているNHKラジオ番組の民謡のリクエストの時間に、工藤翁が一通の手紙を投じたことに始まった。

 工藤翁は、女工哀話の民謡を聞き、市販しているのであれば、入手したい旨の希望と、現在の老境の生活、この番組の竹内氏の解説に好感をもって聞いていることや、世相批判を原稿用紙二枚に名文で書いてあった。

 その後、工藤翁は山形県出身で、幼いころ聞いた新庄節の一つ、真室川音頭があったら、電波に乗せて欲しい。「いのちあらばこのよ、なければあの世で聴きます。」と言う便りを受け取り、竹内氏は感銘を受け、以後交流を深めて来た。

 竹内氏は早速、工藤翁の住居を訪れ、工藤翁の経歴を知ると共にその古今東西に及ぶ該博な知識と人格に魅せられて、以後往来を重ねるようになった。教壇やジャ−ナリズムからも去り、今は東京小平の片隅で隠棲していて、短歌とラジオを聞くことがその孤独と無聊を慰めるものであった。竹内氏も工藤翁の影響で短歌を作るようになった。

 工藤翁宅、無量庵草房(会津八一命名)を訪れた時の印象を次のように記している。「髪や髭こそ白髪だが顔にシミがなくしわもすくない。声が大きくはっきりしている。その反応は一般人と変らず、速いくらいであった」

 これを機会に、ベッドに横臥している工藤翁の枕元に録音機を持参して、工藤翁の言葉をテ−プに採って、竹内氏は全国の民謡フアンに工藤翁の動静を随時報告した。竹内節とも言われる独特の語り口で、幅広いフアンのいる番組を通じて、工藤直太郎翁は英文学者、宗教学者としてというより、人間の晩年の生き方や人生観を語って多くの聴衆に感銘と刺激と慰藉を与えた。

 工藤翁は筆マメであり、又竹内氏もそれに劣らず取材や講演などで多忙にもかかわらず、気軽に手紙を書くことで知られている。そんなことから、竹内氏との頻繁な書簡の往復を重ね、年齢の差や専門領域の異なることなど障害にならず、益々両者は互いに尊敬し合った。百歳にして自分の文章で自分の気持を表現できることに痛く感歎したのであるという。

 人間は老いてくるに従って、色々な事情で、少なくなっていくことはあっても新たに友人を見つけることは、困難である。その点では両者の交友関係は稀有なケ−スと言ってよかろう。

 工藤翁は、果たして百歳を越えられるかと危ぶまれた時もあったが、竹内氏と言う最高の話相手であり、人間工藤直太郎の理解者を得て、文通をしながら、また元気を取り戻し、天寿を全うしたのである。

 竹内氏は埋もれたり、今は忘れられたりした民謡の発掘に、生涯を賭してきた奇特な民謡研究家であるが、ここに一人の知性と教養豊かな日本の心を持ち続けて、武蔵野の地に一人住む老学者を百歳にして、再び世に送り出したのである。

 工藤翁の文面は百歳の人間のものとは思えぬ瑞々しい格調豊かなものであった。そして最期まで乱れを見せない見事な書簡を書き残した。それを基にして一冊の書にまとめたのが「生きてごらんなさい 百歳の手紙」なのである。

 竹内 勉氏は京都三千院との縁から、三千院の山門の脇に「生きてごらんなさい」の碑を建立した。竹内氏は翁が死去した夕刻6時半にその碑の前で、読経した。29日は山形の東光寺で喪主なしの葬儀と49日の法要を済ませた。本の印税は工藤翁の永代供養などに使わせてもらったとある。

 百歳を越えると、連合いも先に逝き、子供たちも高齢者となったり、死去したりして死後の世話をしてくれる者は少ないものである。    

一通の投書が、民謡一筋に50年間研究して来た竹内 勉氏の琴線に触れ、親子程も違う年齢の差を超えて、友情が生まれたことは稀有と言ってよいであろう。

 竹内 勉氏は多くの芸人の最期を見取ってきた。工藤直太郎は英文学と宗教学を講じた学者であるが、最晩年に親しく交わり、最期を見取ったのは、民謡研究家の竹内 勉氏であった。奇しくも竹内氏が工藤翁の手紙を受け取ったのが平成5年の5月20日であるから、竹内氏と知り合って丁度7年で他界したことになる。

 竹内 勉氏は「生きてごらんなさい」シリ−ズを目下7巻目を刊行し、10数巻で完結の予定であるが、その第一巻が「生きてごらんなさい、百歳の手紙」である。

発行元 本阿弥書房 定価1800円(税別)、著者サインを希望の方は直接著者の住所までその旨申込ください。東京都青梅市根ヶ布1−670−21 竹内 勉