宋磁のような美しい図書館の創設=栗本和夫
1999年に、出版界の老舗の中央公論社が、独力で再建を断念し、読売新聞の傘下に入り、中央公論新社として出発することが決まった。
この機会に、かって「中央公論」の編集長をしたことがあった粕谷一希が、「諸君」(1999年4月号)に、入社した時から退社、嶋中鵬二の死までのことを回顧している。
その中で次のような一文がある。「栗本和夫という人は、私が出会った先輩のなかでもっとも印象的で立派な方であったように思う。栗本さんは会社の終焉を見ずに亡くなっているが、生きていれば、どのような言葉を吐かれたか。聞いてみたい方の一人である。」
栗本和夫は、昭和10年に中央公論社に入社。嶋中雄作社長が昭和23年急死した後、当時若干26歳であった次男の嶋中鵬二を社長にすえ、専務として後見人のような役割を果たしてその基礎を固めた。
栗本は出版社も担保能力ともなる自社ビルを持つべきだと考えて、京橋に土地を買い、昭和31年丸ビルから京橋の中央公論社ビルの移転を実現した。
嶋中鵬二は、栗本和夫、山本英吉、篠原敏之、藤田圭雄、宮本信太郎ら古参の社員の危惧を払いのけて、戦後の中央公論の繁栄を齎した、言わば中興の祖である。堅実主義の栗本は後年、自分には鵬二社長のようなことは出来ないと言って、大胆な経営戦略にシャッポを脱いだ。
だが嶋中社長も、時代の流れに抗すること出来ず、1997年莫大な累積赤字で、伝統ある出版社の再生には成功しないまま亡くなった。
栗本和夫は、昭和31年に中央公論社の系列会社の中央公論美術出版を創設し、自己の趣味を生かした地味ではあるが、ユニ−クな出版事業に転身した。後年になっていくらか根をつめて書物の編集の仕事をしていると、時に疲労の残ることがあり、仕事から離れて自分自身のための読書をしたいという気持が湧いてきた。この仕事に入って自分のための愉しい書物の読み方をしていないと思った。そして、還暦を迎えた昭和46年に私財を投じて図書館を新設することを決意した。
栗本和夫は生まれ育った奈良斑鳩の里に祖先伝来の土地と屋敷があった。その斑鳩の里の美しい自然も、栗本和夫の子供の頃とは全く違ったものに変貌していた。その変りようを栗本の目には無惨に映じた。それは老後をそこで過ごさせることを断念させた。
栗本は父親の生前に承諾を得ていたその不動産と28年住んでいた北鎌倉の土地や早くから収集していた美術品を資金にして、倉敷美術館や碌山美術館のような小さい美しい個人図書館を創設することに着手した。
先ず土地の選定であるが、郷里の斑鳩には寺院はじめ古い文化遺産が沢山あり、今更私立図書館を建設することは屋上屋を架すといったことになる。では北鎌倉はどうかと言うと、静かな美しい土地ではあるが、中世文化と遺されたものに恵まれている土地であるが、海の潮風、山の湿気で、書物を保存する面から好ましくない。東京では地価が高くて対象にならない。
そこで選ばれたのが、標高900メ−トル、長野県富士見町の林の中である。土地面積は1000坪弱。ここは空気が乾燥しているので、書物の保存に最適である上、奈良や鎌倉のような文化遺産がない。南信濃にはどこか未開さをただよわせている森や村のたたずまいがあった。
この森の続きに個人の天文台があることも栗本和夫の心を楽しくさせた。多年愛玩してきた日本の名品や宋や唐の時代の壷や皿を手放すことに愛惜があるが、それに代る美しい建物を造ることによって、失ったものに代るものが栗本の心に与え、人々に美しいものへの眼をあたえるに違いないと思ったのである。
建物の設計は、親交のある今泉篤男を通じて谷口吉郎に打診した。谷口吉郎は、藤村記念堂を始め文化的建築物を多く手掛けていることで知られる。東宮御所を設計し、博物館明治村の館長として情熱を傾けていた時期でもあり、多忙であったが快諾を得た。
昭和49年の春に財団法人栗本図書館の認可が下りた。図書館の中核になったものは(1)画譜や画人の著述(2)書籍目録や書籍に関するもの(3)名所図絵や地誌紀行(4)元禄期前後の版本(5)俳書であり、斑鳩文庫と命名した。
逗子の美術収集家武吉道一氏と今泉篤男の寄贈を受け、スタ−トを切った。収蔵予定数は12、3万冊であるが、美術館と違って都市から離れており、書物の保存を重点とする図書館なので、運営と維持に大きな困難が付きまとった。それは、奇しくも86歳と84歳で亡くなった父母の七回忌にあたってもいた。
赤松と雑木林の木漏れ日を谷口は「ツルゲネ−フの森」と呼び、「宋の焼き物のような、あの端正で美しい建物は難しい」と言ったのは、栗本夫妻が愛蔵していた宋磁をやがて手放すことを思ってのことであろう。
図書館の建設は徐々に綿密に進められて遂に完成した。しかしその日を見ずに、昭和54年に谷口が亡くなった。谷口吉郎の最後の設計がこの栗本図書館ということになる。
栗本和夫は、昭和55年の3月に生涯でただ一冊の本「一図書館の由来記」を病をおして書き、その翌月に永眠した。享年69歳であった。
小林 勇は、池島信平と栗本和夫と三人でよく銀座の「はち巻岡田」で定期的に集って情報を交換していたが、その風貌と性格を「理知的で何となく芥川を連想させた。落ち着いていて騒々しいところが全然なかった。すべてに慎重で徒に突っ走ってしまうところがないようであった。」と記している。
又小林は鎌倉、栗本は北鎌倉なので、帰りは一緒に電車で帰った。並んで掛けていると、栗本は居眠りをすることがあった。やがて小林の肩に寄りかかってしまう。小林はそれがうれしいようなさびしいような心持だったと回想している。
小林 勇が「一図書館の由来記」を世に紹介したのは、昭和55年8月号の「文芸春秋」の随筆欄であり、その小林 勇もこの随筆の末尾には故人と記されている。