黒柳徹子

 永 六輔さんのことを書いたら、次はどうしても黒柳徹子さんである。「六輔ときたら黒柳」それは私の頭の中でピタリときまって離れない。勿論どちらが先でも構わない。私の頭の中では「六」と「九」(この際、坂本 九でなく黒柳のク)は昭和三十五年「夢であいましょう。」担当以来、全く同じ位置をしめて変らない。

 黒柳さんは私によくこういう。「川口さん!あなたは日本のテレビのスタ−トの時からでしょう。私もテレビの開始の時NHKに入ったのよ!」

 誤解しないでいただきたい。これは二人が同年生れや同期生だという意味ではない。私の方が勿論はるか年長である。

 だがその年の差を押しのけて、日本のテレビが始まった時からテレビのテレビの仕事をしている、という点で二人は同期のサクラである、と彼女はいいたいのだ。

 私もニコニコして応ずる。「ホント!同期だよね」黒柳さんはすかさず続ける。「川口さん、あの時一緒に仕事をした人たちは殆どなくなってしまったのよ。生き残っている、いかもまだ現役で仕事をしているのは二人きりよ」

 この発言があったのは平成九年の春だ。私はまだNHKの現役の会長だった。ナルホドそういえば、その通りだ!

 しかしその後私は会長をやめたから、名実ともに、昭和28年以来ず−つとテレビの第一線で仕事をしているのはチャックこと黒柳徹子さんしかいないのだ。

 黒柳徹子−ウン十歳をはるかに越えた。だが今もブラウン管で見る彼女はお得意のタマネギ頭に鮮やかに変る衣裳の数々。そして皆に「チャック!(口をしめろ)」といわれた早口はいささかも変りがない。

 しかもこの頃では舞台俳優としても大変な名優となったし、かてて加えて「ユニセフ大使」として世界を何十遍回ったことだろう。こんどのニュヨ−クのテロが起きる前、緊迫した中をアフガニスタンのこども達を訪ねている。その前のアフリカやインドでは病気の蔓延している中を病気の子供たちをその手に抱きかかえていた。

 単なる売名や、スタンドプレ−で出きることではない。あのような旅のあと話を聞いたことがある。彼女は涙を浮かべて話をしてくれた。こどもたちのこと、そして母親のこと、彼女は懸命に話してくれた。

 彼女はきっとその時、昭和28年に「自分のこどもたちに、自分の口でお話をしてやりたい」と思ってNHK放送劇団に入った時の心境と全く同じなのであろう。

 (もっとも永 六輔さんが笑い話するのは、黒柳さんがNHKを受けた時、殆どすべての筆記試験が0点でこんな珍しい人はいない!といわれてうかったのだ、という話だ。−だがチャックの名誉のためにいえばそんなことはありえない。)

 黒柳さんは昔からいろんなことを知っていた。今も「世界ふしぎ発見」のレギュラ−の中で回答率NO.1である。そして実によく勉強するのだ。

 黒柳さんは晩年の沢村貞子さんを本当の母親のように慕っていた。「カ−さん、カ−さん」と呼んでいた。沢村さんは八十歳を越えて、俳優の仕事をやめられた。

 そしてJRの逗子駅から、葉山の御用邸の前を通ってしばらく風光明媚な海岸線を行って駿河湾にのぞみ西の方には富士が見える南葉山のマンションに住み変えられた。

 だがおだやかな心安らぐ生活は長くは続かなかった。まずご主人が、一年たって沢村さんが亡くなられた。

 あの忙しい黒柳さんは自ら車を駆って、頻繁に南葉山のお宅を訪れた。

 その時に何回か一緒になった。「カ−さん、カ−さん!」という黒柳さんの声が耳にいつまでも残っている。

 沢村さんが亡くなられた時、黒柳さんは実の母を失ったよりも悲しんだ。あの忙しい人が仕事の終ったあと、何度も何度も訪れた。

 沢村さんの遺骨は油壷からの船にのせて、ちょうど南葉山のマンションの見える駿河湾上で散骨された。

 キラキラと夕日に輝いてご遺骨は海底に沈んで行ったという。

(私は仕事で参加出来なかった)

 それから6年、今も黒柳さんに会うと「カ−さん、カ−さん」といっていた彼女の声が先に聞こえてくる。