「 鎌倉の一日」の虚子庵
高浜虚子が子供たちの健康のために、鎌倉に移住したのは明治43年である。その頃の鎌倉は今と違って人口が少なく、町の至る所が畑で、鄙びた所であった。虚子が最初に住んだ家は由比ガ浜で、家主は帰化したイギリス人であった。虚子は抱家と言う言葉を使っている。虚子は大正初年頃から、能楽に関心を懐き、自ら演じ、「実朝」など新作能を書いた。毎日、鼓や太鼓や笛の練習をしていたので、その家の前に住んでいた家主から、読書の妨げになるからとの理由で、立ち退きを求められて近くの鍋倉氏の貸家に移った。明治44年それが世に言う虚子庵である。虚子は家に限らず、物に対して執着がなくなまじっかの注文を持ち出すより、何でも眼の前に現れ来ったところもので満足して置く習慣であると言う。
虚子庵は江の電の和田塚と由比ガ浜の中間の線路際にあり、電車の中からでも注意していれば傍観できる。現在では、虚子とは無関係の私宅になっているので、公開されていないが垣根の一角に「 」の句碑があり、屋根は葺き替えられたり、部屋の柱など補修されたが、庭は当時のままであり、虚子の生前の頃を偲ぶことが出来るたたずまいである。
虚子の一日は奥の八畳の部屋で目を覚まし、湯殿で髭を剃ることからはじまる。それから朝風呂に入るのが日課である。朝風呂は風邪を引き易いとの俗説に対して、虚子はそんなことはなく、体の調子がすこぶる良いのだと言う。上京しなくてよかったり、鎌倉能楽堂に行かなくともよい時は風呂に漬かりながら、ゆっくり時間をかけているのが虚子にとって全く尊い時間であった。
20代30代の頃は一週間も二週間も髭をそらないでいたことがあったが、それでも一向気にならなかった。だが40代に入ると、そうもいかなくなった。髭をそることによって若返るような気がしてきた。夏など湯を上がって縁側で爪を切っている時に、地上を這っている蟻は、それを見つけて恰も剣鉾を運ぶようにその爪の片を高く差し上げて引いて行く。その光景を見て、いつも淋しいような可笑しみを覚える。ところが冬などは爪の片は地上に飛び散ったばかりで日の光を受けて光っている。
虚子は自分の娘が年頃になり、家事を手伝っている姿を見て、素直に子供の成長を喜ぶ気持ちになれない。子供の健やかに成長して一人前の人間になっていくことが嬉しくないことはない。けれど子供の成長の反面には自分の老衰がある。又子供自身にとってもその成長の後には老衰が待ち設けている。ひとり老衰ばかりでなく、その成長のすぐ次には浮世の辛酸が待ち設けている。只大きくなって行くから結構だといって祝福して行く心持にはどうしてもなれない。
虚子は「病気になったら病院に入って、医者や看護婦の人情を抜きにした機械的の看護を受けて死ぬるより他に道がないような気持ちがしている。子供達の涙に濡れた情けに満ちた介抱を受けるのが、幸福であるというような考は毛頭ない。けれどもこれもまた、自分の子供に着物の世話や食べ物の世話をして貰おうということを予期していなかったのが、何時の間にかその世話をうけつつあるのと同じようにいつの間にか又子供の扶養を待ち、その介抱を受けるようになるのかもしれぬ。口はばったいことを言ったり考えたりせぬ方がよかろう」とも言う。
虚子は朝刊を読む時に、郷里から郵送されてくる「伊予日々新聞」に目を通す。その日の死亡記事にかって子供の時分に知った郷里の役者が、料理屋の養子になりその後東京に出て、左団次の弟子として明治座などの舞台を踏んだが、また晩年は帰郷した。虚子は近くから、又遠くからこの郷里の役者を見て、挿話を交えながらその一生を記している。役者の名は左文次。
又部屋を掃除している時、硝子障子が開け放たれていて、そこから余寒の風が吹き込んでくる。そんな時虚子が、小説を書く前の漱石千駄木邸を訪れたことを思い出す。「漱石は障子の外に座って寒い風に吹かれながら庭の方を見ていた。私も仕方なしにその縁側に座布団を敷いて話した。「これは寒いですなあ」と私は言った。枯木が四五本ある殺風景な庭を吹いて来る風は馬鹿に寒かったのである。ところが漱石氏はこんなことを言った。「もう東風ですよ。東風が吹いているのですよ」そういって大空の方を眺めた。もう時候が春になっているのだから成る程東風も吹いていい筈であるが、その風は疑いもなく北風であった」
鎌倉にいる日は、大概能楽堂に出かけた。自宅から数百歩のところにある。その道端に人家になっているところもあるが、畑になっている部分が多い。麦や豆がいつの間にか成長し、収穫できる程になってしまうのに驚異の目を向ける。鼓の一拍子を覚え、舞の一手を習うのにも中々長い年月を要すのであるが、それは屈託があり、躊躇があり、迷妄があるが自然は何の遅疑するところもなく、生々化育の功を遂げていく。
では人間は悠長なものかと言うと必ずしもそうではない。子供達が何時の間にか成長して、嫁入り前の娘に「人生の春をして長からしめよ」と言う。親として子供の婚期を失することはもとより心苦しいことではあるが、女学校を出るや否や直ぐ人の妻となり直ちに又子の母となる娘にも憐憫の情を持たねばならない。生涯に再び来ない華やかな娘時代は一年でも長いことを親として考えてやらねばならないことではないかと、その複雑な心中を吐露している。
こんなことを考えながら、麦畑の前に佇んでいると、能楽堂の方から、鼓や笛の音が聞こえて来る。能楽堂に着くと羽織を脱いで、袴をつけてすぐ舞台に立つ。舞台は「盛久」の申し合わせがはじまっている。
虚子は言う。こんなことをして時間を潰したり日を暮らしたりする上に何の利益があるのか、と疑う人が世間には多い。そして会員の中には海軍の予備将官や爵位のある人、巨万の富を有する人がいて、これらの人々はその晩年を如何にして暮そうかと、考えた時に過ぎ行く月日を小刻みに面白く刻んで、鼓の音色や拍子盤の音で、これを楽しく彩ろうと志したのがかく鼓笛を弄するに至った主な原因であろう。だが虚子は上記の理由から能をやっているのではなく、自分でもよく判らないと言っている。
能楽堂の華やかさと自宅のひっそりした様子から、虚子は子供の頃の能楽会があった往昔の回想に耽る。虚子の父親も能の愛好者であったので、早くから能の世界に馴染んでいた。虚子の子供が今度は自分と同様に皆能になずんでいる。
演能会は年に三度催されるが、みな相当に満足もし、くたびれもするが、こういう催しはそれをやる前のほうの楽しみが多くて、済んでしまったあとはかえってもの淋しさを感じる。会員が演能に満足してがっかりしたような心持でいたのはわずか二三日間のことであって、直ぐそのあとから新しい稽古に取り掛かる。
この能楽堂には、寡暮らしの老人が管理している。老人は能には無関心で、盆栽を丹念に育てている。出来うれば能の稽古が早く終って、自分だけの世界に浸りたいような狷介固陋な人物である。鎌倉の地理には詳しく、何処に蕨、ぜんまい、つくし、蕗のとうがあるかをよく知っている。
能の仲間は稽古の後には、主婦達が用意してくれる食事をとりながら、一献傾けるのである。そんな折り、ふと鎌倉幕府時代の「塔の辻」の光景が、絵の如く虚子の眼の前に浮かんでくる。「塔の辻」と言うのはこの能舞台の建っている土地の字(あざな)である。そして幸若の舞台が出来ていて、そこに鎌倉時代の老若男女の多くが打ち集って、見物している光景を思い浮かべるのである。
このあたりの近くの和田塚周辺には、地形を作ろうと思って土地を掘ると、往々にしてその下から夥しい人馬の骨が出てくる。夏になると、海水浴で賑わう由比ガ浜の海岸も当時は刑りく場で幾多の血を流し、骨を埋めたかしれない。この「塔の辻」も血なまぐさい骨はないけれど、別種の人間の骨が埋まっていることは争えないと言う。
能楽堂を出ると、大空には春の月が掛っていて、その春の月を仰ぎながら、麦畑の中道を通っていく時に、座敷の雨戸を閉めている老人の姿が手にとるように見える。
帰宅してみると、広げられた古新聞に土筆が山のようにある。お手伝いが佐助の方から、寿福寺の方に回って三年前になくなった六子の墓参りをして帰って来る。六子は虚子の四女で、生まれつき体の生育が遅く、三才で亡くなった。この子は或る時肺炎を起こし、40度ばかりの熱が10日も続いた時、看護の処置を誤って、脳症になってしまった。虚子夫婦は自分達の手抜かりによって、幼い我が子を不具にしてしまったことは、はたで見ていて辛かった。
「死んだ方がこの子自身にとっても幸せだ。」と虚子は幾度も心の中でささやいたことがあった。そうしてそれは終に虚子の希望通り、小さい息を引き取った。生前死んだ方がいいと考えたことが、殊に残酷な事であったように考えられもするのであったが、しかし死んだ方がこの子の幸福であり、また虚子らにとっても仕合わせであったと言う淋しい安心を覚えた。そしてそれ以来この子の墓に参ることがなんとなく虚子にとっての一つの慰安となった。
子供らは土筆のはかまをとりながら、六子が今生きていたならば、どんなであろうかと想像して、語り合う。虚子は昼間の留守中にきた書簡に目を通して、死んだように疲れて眠りに入る。
夜半になって、ふと目を覚ますと「オヤ雨が降っているな」と虚子は夢現の境にあってその静かな音に耳をそばだてた。家族のものは前後不覚に眠っているようだ。それらの子供たちが今宵一夜の熟睡でその疲労を回復し翌朝から又生き生きと活動するのと同じように今日子供達に踏み荒され摘み荒らされた野原の草は、この雨によって蘇ったような思いをするだろう。そう考えながら聞いていると、その雨の音は慈悲に富み、情けに満ちた柔らかい豊かな音であった。
この能楽堂は今は存在しないが、東京文京区に移築された。虚子の墓は寿福寺にある。