ミスタ−ラバトリ−(便所)御到着

「あんな恥かしかったことはない」と当時を振り返って述懐したのはワンマン宰相こと吉田 茂であった。外交官から戦後総理大臣になった吉田 茂が、英国大使在任中の昭和12年、あるレセプションに招待された時の体験談である。

 吉田 茂はタキシ−ドに身を包み、トレ−ドマ−クの鼻眼鏡をかけて車に乗込んだ。目指すはロンドンのパ−クレ−ン街にある某英国大使公邸である。途中で吉田はどうにも我慢ならない生理現象に見舞われた。だが車を停めて、放尿する訳にはいかないので、じっと堪えて大使公邸の車寄せに辿り着いた。

 ドアマンがドアを開けるのももどかしく、吉田は玄関への階段を駆け上った。玄関はそのまま、各国大使や夫人達が談論しているサロンに通じている。

 タキシ−ドを着た威風堂々たる巨躯の執事が、来客の到来の度に奥の部屋にいる人々に向って、「何何様御到着」と来客の名前を大声で告げるのである。

 尿意も限界に来た吉田は、その執事に近寄って小声で「ラバトリ−はどこにあるのか」と訊ねた。この執事は吉田の英語をどう聞き間違えたのか、並み居る来賓に向って、ものものしく「ミスタ−ラバトリ−御到来」と叫んだ。

 そこに居合わせた紳士淑女は「便所氏」という奇妙な名前の持ち主を一目見ようと、一斉に好奇の視線を投げかけた。そこに険しい表情で、山高帽に鼻眼鏡の東洋人の姿をみとめて爆笑した。

 その瞬間、駐英大使吉田 茂は、顔は真っ赤になり、額から汗が滲み出てきた。英語でジョ−クを飛ばすほど英語が堪能と言われた外交官も生理現象が禍して、飛んだ珍現象の主人公となってしまった。