戦後の暗い世相に笑いをもたらした松井翠声
「松井サン、松井サン」という声が、半世紀を経た今も耳朶に残っている。昭和24年(1949年)に始まったNHKのバラエテ−ショウ「陽気な喫茶店」で出演していた相棒の内海突破の声である。
この頃はテレビも民間放送も開局していない時代であるから、聴衆はNHKのラジオが唯一の娯楽機関であった。しかも日曜のゴ−ルデンアワ−であったから、多くの人々が名コンビの軽妙で早口のジョ−クに笑いを楽しんだ。
レギュラ−には、第二回のど自慢で「南の花嫁さん」で優勝した荒井恵子が出演していて毎回、当時流行っている曲を歌っていた。
松井翠声は、映画界にト−キが導入される以前は、特に洋画の弁士としてインテリ層に人気があった。だが翠声が弁士として一本立ちになるまでには、様々の職業についているが、それは翠声の生い立ちと関係がある。
松井翠声の本名は五百井(イオイ)清栄。東京本郷の生れである。生家は祖母が江戸時代の大阪の豪商、淀屋辰五郎の家から出ているほどの裕福な商家であった。しかし、父親の代に家運が傾き、翠声は小学校の半ばで奉公に出る。
写真屋、寺の小僧、新聞配達をしながら、錦城中学の夜間部に入学。昼間の勉強に代りたいことから夜の仕事を探した。それが弁士になる動機であった。
当時牛込館にいた弁士、松浦翠波に入門。見習い弁士、松井翠声を名乗る。見習い弁士のかたわら、中学を卒業。早稲田大学英文科を卒業後も洋画専門の弁士として一本立ちとなる。
弁士は、映画と映画の間に出て、その粗筋を分かりやすく説明する。そのことを前説(まえせつ)と言って、その巧拙が給料に響いてくる。
昭和の初頭にト−キが入って来ると、説明者は映画鑑賞の妨げになるものとされるに至った。一時は人気稼業であった説明者も転業廃業を余儀なくされた。徳川夢声、大辻四郎等は転業して成功したが、大半は時代の趨勢に乗れず、弁士としてその生涯を終えたものが多い。
浅草公園にある活動弁士塚は、かってサイレント映画に活躍した、今は亡き百余名の弁士の先駆的功績を称えて建立されたもので、碑面にはその名が刻まれている。勿論松井翠声の名も其の中に見える。
松井翠声は1930年に渡米、ハリウッドに行きパラマウントのオ−ルスタ−映画「パラマウントオンパレ−ド」に通訳の役で出演した。それ以前にアメリカ映画界に出演した日本人には、上山草人、早川雪州、栗山ト−マス、ヘンリ−小谷、阿部豊がいた。
松井翠声は、単身ハリウッドに乗込んで行ったが、最初勝手が判らず、上山草人、浦路の世話になった。 翠声によると、その頃のパラマウントのスタジオにはゲ−リ−ク−パ−、チャ−レスロジャ−ス、リチャ−ドアレン等がいて、溌剌たる青年人気者ばかりですべてがフレッシュな感じがしたという。
翠声はパラマウントのスタジオでモ−リスシュバリエと会うと、パリのことで話が尽きなかった。翠声があるフランス語の単語を忘れて、思い出せないでいると、「君、御自由にどうぞ、英語でもフランス語でも楽な方でお話下さいよ」なぞと偉そうなことを言った。そうかと思うと、忽ちシュバリエの英語があやしくなってフランス語が飛び出して、二人とも噴き出してしまうようなこともあった。
1932年にはウエスタント−キ−を日本に紹介、この方式で制作したオリエンタル映画社の「浪子」に徳川夢声らと出演した。
1938年には東宝の記録映画「上海」の解説を担当し、中国にも行き、兵士達を慰問している。
松井翠声は「陽気な喫茶店」のレギュラ−が終ってからは、「タレントスカウト」「クライマックス」など民間テレビで司会業として出演し茶の間でも親しまれた。
1973年4月30日に鎌倉に長く住んでいた大仏次郎が、亡くなった。鎌倉材木座在住の松井翠声は大仏次郎と交流のあったことから、大仏邸に弔問に出かけて行ったが、まだ築地のガンセンタ−から遺体が到着していなかった。その時大仏邸近くに住んでいた永井龍男と偶々庭で居合わせた。
それから丁度3月後の8月1日に、翠声も大仏次郎の後を追うようにして同じくガンで急逝した。享年73歳であった。永井龍男は翠声の悲報を新聞で知って、その日の他のニュ−スが無意味なように思われたと人生の無常を回想している。
鎌倉寿福寺には大仏次郎の墓があるが、それと指呼の間に松井翠声の墓もある。今年2003年は松井翠声が死去して30年になる。