明治の洋館=七里ガ浜「松の屋敷」

1982年に有島暁子が死去した時、遠藤周作は学生時代に有島生馬、暁子親子が住んでいた七里ガ浜の「松の屋敷」に土曜になると行って世話になったことを回想していた。生活にも苦しく将来の展望も開けなかった時代である。戦後間もないのにここには酒が十分にあった。それに室内には、セザンヌの絵やロダンの彫刻などが、あって鑑賞できたことは他では味あうことが出来ない体験であった。また有島暁子の紹介で、鎌倉在住の神西 清、中村光夫らの作家や評論家の面識をうることが出来るようになった。苦学生の遠藤周作にしてみれば、上流階級のサロンの雰囲気を体験した最初であった。遠藤周作によると、有島暁子は本当の意味のレデイ−であったと絶賛する。遠藤周作がフランスに留学する前に「松の屋敷」に足繁く通ったことは、渡仏後の生活に大いに勉強になった事であろう。留学から帰国後、作家になり、キリスト関係の小説「沈黙」を発表して宗教界に波紋を投げかけた時にも、精神的な支援を受けた。

遠藤周作は晩年、仏壇の前の母親、兄、有島暁子と在仏中に世話になったR夫人の遺影に水をあげることを欠かさなかった。肉親は別としていかにこの二人の女性が生涯の恩人であるかがわかる。有島暁子が晩年、当時小田急線沿線に住んでいた遠藤周作の家にやってくる。そして一晩泊めて欲しいと言う。その時にはすでに有島暁子はガンに冒されていて、余命いくばくもないことを知っていて最後の別れに来たのであろうという。有島暁子は篤い信仰の女性である。病魔を恐れることなく淡々とそれに立ち向かって動揺の色を顔に出さなかったことは、多くの手術を経験してきた遠藤周作をして兜を脱がした。

この「松の屋敷」に有島生馬夫妻と一人娘の暁子が、東京麹町の広大な武家屋敷から移住してきたのは、大正10年12月であった。その前半年ほどの間、近くにある新渡戸稲造の別荘(現 聖路加看護大学アリスの家)に滞在していた。この頃から東京の文化人、山下新太郎、石井柏亭 、与謝野夫妻、西村伊作、 河崎なつ、沖野岩三郎 、海老原喜之助などが有島家に集まるようになった。いわば多種済済 一種の芸術家のサロンである。

有島生馬は、新渡戸稲造の別荘から数軒先のイタリヤ人が所有していた屋敷the pines の屋敷内を偶々留守番の老人に案内されてすっかり気に入ってしまった。邸内には伸び放題の樹木の陰にベ−ジュに茶で縁取りしたコロニアル スタイルの家屋、文字通り廃屋である。

有島生馬は次のように書いている。「なぜか訳は分からないが、私は木の香りのぷんとするような真っ白い新築の家屋は嫌いだ。」(中略)「、、、、、しかし私はそれよりも、もっと古い家、いつからかもう人のすみ捨てたような家、壁が落ち軒が傾き、月が常住の灯火をかかげ、霧が不断の香りを焚くと謡われたような廃屋をみるのが好きだ。なぜか分からない。、、、、、、、」[四阿屋から木造の本館の全体が一目に見られた。総二階の殆ど四角いペンキ塗りの建物だった。南側に海と日光に向かって広いベランダをひろげていた。、、、、中略 、、、、、、、鎧戸がどの窓をも堅く閉じていた。一度はどの窓も目をあいていたにちがいない。見ていたにちがいない。主人が息を引き取ると総ての窓も自ら目を閉じて終わった、、、、、、、]

有島暁子はもしこの時点で父とこの廃屋の「松の屋敷」の出会いがなかったら、この家は昏々と眠り続け、永久に目を閉じたであろうと言っていたが有島生馬によって又目を開かれるようになった。

大正9年に東京にいた時に暁子は、疫痢にかかり九死に一生を得たのであるが、その後鎌倉に来てこの「松の屋敷」の生活は幸福そのものであった。母親はピアノのレッスン、父親なキャンバスに向かい疲れると、庭から七里ガ浜の砂浜に通じる渚を何の心配することもなく散策の日々といった生活を過ごしていた。生馬の作品の中に、この「松の屋敷」の門構えの風景が描かれているのがあるが、有島家の至福の時代を象徴すると言ってよい。

有島生馬が最初にこの「松の屋敷」を訪れた時に、留守番をしていた老人は、新しい主人の有島家の忠僕となった。、昔船のボ−イをしていた時の経験を生かし来客時には腕によりをかけて食事の支度をした。そして天涯孤独なこの老人は生馬の腕に抱かれてその生涯を終えた。もし生馬と出会わなかったら、愛犬と暮らしていたこの老人はどんな最期を迎えたであろう。

明治23年に建てられたこの屋敷の持ち主は、明治時代に来日したイタリヤ人で、日本で産をなしアメリカに帰化し、その頃すでに8年前にアメリカで死去していた。、遺産相続人がいなくて米国政府が管理していた物件であった。有島生馬は横浜のアメリカ領事館に交渉して買い取り、改造して住めるるようにしたのである。

戦時中は米軍が相模湾から上陸するという風聞があったので、有島家は信州の南佐久に疎開した。この時から有島家と信州との関係が生まれた。戦後になっても、信州が気に入り鎌倉に帰ってくるのが遅かった。勿論食料事情が悪かったこともあろうが居心地がよかったのである。鎌倉に帰って来てからも信州を往来した。

有島生馬が1974年に死去した後も暁子は住んでいたが、生前こよなく愛し続けて住んだ「松の屋敷」を何とか保存する道はないかと心にかけていた。生馬の遺志が生かせるなら、無償で提供するということを聞きつけた信州新町が候補地として名乗りを上げた。1980年夏に解体作業が始まり、信州新町の内外の人々による寄付によって移築され、有島記念館として存続するようになった。

「松の屋敷」が移築された後も暁子はその一隅に住み、大半は暁子ゆかりの上智大学の研修保養所になった。そして2年後の1982年にその責任を果たしたかのごとく暁子も永遠の眠りについた。こうして有島生馬 暁子親子二代に亙って思い出深い「松の屋敷」は、長らくその生命を持ち続けることになった。若き日にイタリヤに留学した有島生馬が、イタリヤ人の建てた明治の洋館に住んだことは不思議な因縁と言わざるを得ない。