お隣の意外なおメカケさんの旦那
昭和10頃林 房雄と川端康成が、鎌倉の浄明寺宅間ガ谷の三軒屋で隣合わせに住んでいたことがあった。そしてもう一軒の主人が、誰であるか長らく分からなかった。
人の良さそうな中年の美人とその母親らしい老夫人と女中の三人がひっそり暮らしていたが主人の姿を見たことがない。そこの家に子牛ほどの土佐ブルがいた。近所の噂によると、隣りの美人は誰かの2号であることまでは分かったが、それでも誰であったか分らない。
この美人はおめかけさんらしくないおめかけさんであった。唄も三味線も出きるのであるが、それらしい音は一度もたてたことがなかった。ひきこもって、針仕事と畑仕事で日を送り、道で会えば、頬を染めて、消え入りそうなお辞儀をし、どんな素人の奥さんよりも素人めいた暮し方をしていた。
「あんなお妾さんなら僕も一人くらい持ちたいね」と川端康成が夫人に語った。夫人がそのことを林 房雄夫人に告げた。すると、林 夫人も「あんたもでしょう」と林 房雄はにらまれた。
ある時、川端夫人の悲鳴が聞こえてきた。続いて隣家の美人の叫び声が聞こえてきた。犬の悲鳴も交じっていた。
庭に出てみると、驚いたことに林 房雄が飼っていた小犬が、隣家の猛犬の口に咥えられていた。直ぐカッとなる林 房雄は棒切れをつかんで、生け垣を飛び越えて、巨犬の頭を一撃したが、相手はびくともしない。
2号夫人が飛び出してきて、巨犬の首輪をつかんだが、猛り狂って犬は女主人を引き倒して、土の上を引きずりながら、小犬をおさえつけ、獅子舞の獅子が噛む時のように、ぐあっと小犬の首をかむ。
犬の扱いに馴れている川端夫人が台所から水を汲んできて、その巨犬にぶっ掛けた。巨犬は水を浴びて、飛び離れたが、小犬は首筋を真っ赤にそめて花壇の中にのびてしまった。
2号夫人が小犬を抱き上げ、犬の医者に連れていった。行き届いた処置をされたので、何とかその場はすんだ。だが騒ぎが収まると、林 房雄は猛然と怒り心頭。隣家の主人が、騒の間にチラリと縁側を見せたきりで、そのまま奥にひっこみ、泥まみれ水まみれになって健闘している川端夫人や林 房雄に一言もなかったで、それが林房雄にしてみれば、癪に障った。
林 房雄は、垣根越しに隣家に向かって大声で「こんな失礼な話があるか、出て来い、この馬鹿野郎!」だが、隣家からは何の返答もない。林 房雄は母親と妻にたしなめられて、書斎に引っ込んだ。
まもなく犬の病院から電話で、小犬の一命が取りとめられたと連絡が入った。「よかった」ということで、この件は終結した。
それから一年近くたったある夜、東京の劇場の廊下で、林 房雄は長田幹彦にあった。
長田幹彦は「あなたと顔を合せるのはつらいですよ。なにしろ相手が、川端さんとあなたでしょう。つい出そびれて、とうとう最後まで顔を出せなかったのですよ。ずいぶん大きな声でどなりましたね。こわかったですよ」
宅間ガ谷三軒屋のうちの一軒の姿を見せない主は長田幹彦であったことが、その時初めてわかった。