三波春夫

「お客様は神様です」のことばで有名になった三波春夫さんがなくなった。ガンだった。本名 北詰文治、はじめ浪曲界に入って南条文若といった、とあるがその辺のことは全く知らない。

 私が三波さんに初めて逢ったのは昭和三十三年勿論、テイチクレコ−ドの新人歌手として売り出してからのことである。

 三波さんにはすばらしい奥様がついておられた。余り表立っては知られていないが、三波さんのプロデユ−サ−として、古臭くいえば軍師として三波さんの歌の企画から、衣裳ふりつけまでことごとくこの名軍師がアレンジなさった。

 この奥さんのすてきなことは、表には一切出ないですべて蔭でなさったことである。それが証拠に私など面と向かって挨拶したこともない。すべてはカゲで、しかも絶大なプロデユ−サ−としての力をふるわれたのである。

 後年、三波さんと極めて仲良くなられた永 六輔さんにきいた話だが、あの三波さんの売り出しからヒット曲作り、そして後年になっての路線転換戦術の数々、すべて奥さんの力だという。思い返してみて「さもありなん!」と思うことは数多いが、私には大変すばらしい夫婦のあり方に思えてならない。

「ちゃんちきおけさ」で大ヒットしたあと一寸ヒットが出なかったことがある。

 その三波さんがある日、若かった私(30才前後だった)に向って、「この歌、きいて下さい、いいですよ」もって来られた歌がある。

 あのヒット曲「俵星玄蕃」である。きいて私は唸った。「三波さんお見事!あなてでなければ、歌えない歌です!」

 作曲は長津義司さんなのだが勿論、曲想、浪曲風のセリフ、派手な振り付けすべて、三波さんのアイデアに違いない。いや、もう一つ溯ればこれはもう、三波夫人のアイデイアに間違いない!

 この歌従来の歌謡曲の域を脱していた。一曲三分(当時の主流のSPでは片面の長さは三分をこえられなかったのだ)という枠をはるかに飛びこえている。更には浪曲と歌謡曲の見事なつながり、あたかも短い浪曲のヒトフシを語ったような満足感、充足感がある。後年、紅白歌合戦に出ていただく時は、1人3分の持時間をはるかにオ−バ−して、「でもやはりことしの曲はこれ」と特別な配慮をした。

 のちにさだまさしさんの「亭主関白」とかニュ−ミユジック系の長い歌を紅白に出す時のサンプルになった。

 スタジオ中に白い雪(といっても紙クズだが)を降らせて「バクガイガイ、雪ヲケタテテ、サクサク」とか「オウ、ソバヤカ!」という三波さんのハギレのいいセリフと共に、その時の様子が目に浮かんでくる。

 浪曲という日本人の心情に迫る曲調を元にして見事な歌謡曲に仕立て上げる−そこに三波春夫さんのよさががあった。

 私はある会合の余興で、三波さんがシャンソンを歌うのを聞いたことがある。皆拍手喝采であった。で私にはとても拍手は出来なかった。三波さんはやはり、日本の、日本調の歌い手なんだ!と私はしみじみ思った。