ハンセン氏病に人生を捧げた話

 日本の医学の進歩に、来日宣教師の先駆的役割は欠かせないが、救癩事業として明治22年の5月にフランスの宣教師テストウ"イドによって御殿場に神山復生病院が創立された。明治28年11月にはイギリスのハンナ リデルにより熊本に回春病院が出来た。

 だが日露戦争の終結と同時に、イギリスからの資金が途絶え、維持が困難になってきたので、リデルは光田健輔と渋沢栄一に相談した。当時の光田健輔は養育院に勤務する一介の無名の医師であった。

光田医師は4年間にわたる癩の研究の記録を基に、渋沢栄一に癩施設の完備の必要を説き、渋沢栄一を通じて、財界に働き掛け、さらに癩予防の法律をつくることにこぎつけた。明治40年のことである。そして2年後に全国に5個所の癩病の療養所が出来た。

 その一つが東京府下の公立療養所で、後の府県全生病院である。光田健輔は院長としてここに移ってから、解剖など本格的に癩の研究と臨床実験に取り組むことになる。35歳の時である。

 昭和5年には岡山県の長島愛生園の院長として昭和32年8月31日迄精力的に病院の運営にたずさわった。光田健輔は、明石海人、小川正子などの作品が世に出るのに、協力した。そうすることによって、世間の人々が癩病にたいする正しい知識を持つことを願ったのである。

 この間における光田健輔は、身勝手な患者の主張に悩まされ、励まされた。病院に勤務する職員との対応、金策、病院周辺の住民との摩擦。在野の医師の孤独というようにさまざまな人間のしがらみの中で、精神的物質的援助を惜しまなかったのが渋沢栄一であった。

 昭和6年6月25日に活動写真を持って、渋沢栄一を見舞った。「長島愛生園は子爵のご事業の結晶です。ぜひ一度お訪ねいただきたいのですが、とりあえず活動写真だけでもお目にかけたいと思いまして、、、」と言って光田健輔は病室の壁に長島愛生園の様子を映写した。

 渋沢栄一は後に積み上げた蒲団にもたれ、看護婦に支えられて画面に見入いりながら感歎の声を発した。「光田君、よくここまでやってくれた。今後とも頼むよ、、、、、」これが生前における二人の最期の対面となった。

 11月になると、渋沢栄一の容態が悪化した。10日の朝、光田健輔は急遽上京したが、東京駅頭で渋沢栄一の訃報の号外に接して呆然となる。ただ光田の頬には滂沱の涙があるだけであった。

 「癩に捧げた八十年」の著者 青柳 緑は次のように記している。

「思えばライ救済を生涯の仕事と決めて東京養育院へ行き、初対面以来いつしか三十数年の歳月がたっていた。渋沢栄一は大正五年七十七歳でそれまで関係していた一切の事業から引退したが、東京養育院とライ救済事業は死ぬまでの仕事だといって手放さなかった。明治以来元勲と言われる人は数多くあるが、この点が渋沢栄一の他の人と違っているところである。光田健輔はこの人の知遇をうけたことが、どれほど幸いしたかわからない。この人がいなければ、日本のライ予防はここまで発達しなかったであろうと思うと、魂を奪われたような虚脱感をどうすることもできなかった。

 渋沢栄一の死後、三ヶ月もたたない昭和七年二月三日には、熊本の回春病院のハンナリデルが亡くなった。八十三歳であった。明治二十八年以来実に四十七年間日本のライ者の友として暮らしたのだ。渋沢栄一と共にハンナリデルにも、新設の愛生園を見てもらいたいと思っていた光田健輔は、続けざまに二人の知己を失って、深い悲しみに閉ざされた。渋谷栄一がいなかったら、日本の救ライ事業がここまで進んだかどうかわからない。しかも渋沢栄一を動かしたのは、ハンナリデルの目覚しい献身であったのだ。大阪毎日新聞は「ミスリデルの昇天は青天の霹靂であった。一国の総理大臣が死んでも後任はいくらでもおるが、ミスリデルの昇天は何ものにも代え難い損失である」と、社説でその死を悼んだ」

 光田健輔は1964年5月14日、満89歳で死去した。遺骨は長島愛生園にある万霊山遺骨堂に納められた。