番外編
仕事の先輩 三浦 清さん
8月1日に私の50年来の先輩が亡くなられた。元ドラマ部長、三浦 清さん享年78歳であった。
三浦さんは神戸の出身、大阪市立大学卒業してNHK大阪に入った。昭和22年である。勿論ラジオの時代であった。
「お父さんはお人好し」「アチャコの青春手帖」などBKドラマの黄金時代である。
昭和28年に
AK,BKでテレビが始まった。昭和31年、三浦さんは大阪のラジオ担当から東京のテレビ局へ転勤となる。そして私のいたテレビジョン局音楽班の勤務となった。3年あとにNHK入った私は、福岡放送局勤務を経て、テレビ開局早々からテレビ担当となった。
三浦さんたちは、ここで一足お先にテレビの仕事を始めた後輩たちについて仕事をすることになるのである。
ラジオの仕事ではベテランでも、テレビの仕事では新人である。
音楽班のチ−フ福原信夫さんにしごかれた。コ−ルユ−ブンゲンを大きな声で歌わせられる。歌のフメンをドレミで歌わせられる。音楽が苦手の三浦さんには耐えられぬものだったろう。
「川さん、オレ逃げるよ」三浦さんは、そう宣言して早い時期にドラマ班に転じられた。
(音楽が苦手の私も逃げたかったが、三浦さんに先に出て行かれては仕方がない。開き直って歌謡曲や民謡に精を出す以外に生きる道がない。開き直って「テレビでの音楽番組作り」に没入することにした。私が曲りなりにも、テレビでの音楽番組の草創期に名を残し得たのも、三浦さんのおかげである。)
三浦さんはドラマに転じて水を得た魚になった。朝のテレビ小説のスタ−トには三浦さんの力が大きい。大河ドラマのスタ−トにも大きな関係があった。飄々とした方だったが、物事に動ずることがなかった。
「なるようにしかならんよ」とか「正しいと思えば、やればいいんだよ」とか言われることには力があった。
三浦さんとは後年、三浦ドラマ部長、川口主管としてご一緒にドラマ作りをやることにもなったが、その簡潔な一言一言は大いに励まされた。
後年、平成3年に私がN響理事長からNHK会長になった時も、電話でたった一言、「川さん、思った通りにやればいいんだよ」といわれた。
このことばにどんなに励まされたことか。
最近はすっかりご無沙汰でどうしておられるかな、と気にしながら電話もすることがなかった。
8月1日の夜、友人からの電話で、三浦さんの死を知った。大腸ガンだったそうだ。
8月4日、前夜式、8月5日葬儀、荻窪の教会で行われたが、久し振りに会う人もいてにぎやかになった。
私には、しかし50年に近い長い長いおつき会いの中で終始、励まされてきたという思いがして、3日間は2人だけの思い出の中に生きていた。