都 はるみ

 昭和30年代の後半になって彗星のように現れた歌手はたくさんいるが、都 はるみはその中でも一きわ光彩を放つものだった。この頃、男性歌手には橋 幸夫、西郷輝彦、三田 明等がいるが、それらの歌手たちの中にダイナマイトのように飛び込んできたのが都 はるみだった。

 都 はるみは京都育ち。市川昭介という作曲家のパンチのきいた演歌をひっさげて、いきなり飛び込んできた。後世「はるみ節」とか「うなり節」とか呼ばれたが、それはやはり一世を画する登場であった、といってもいいだろう。コロンビアレコ−ドで華々しいデビュ−を果たすや、忽ちに各種の新人賞を獲得したのだから、大した新人だった。

 私が、都 はるみの登場をよく覚えているのは、この颯爽たる登場ぶりである。何しろ余りに勢いのいいデビュ−で新人イコ−ル、スタ−誕生!みたいな勢いがあったから、歌手の格付を重んずるNHKには大きな衝撃となったわけである。

 昭和38年の暮、紅白歌合戦の出場者選びは「都 はるみを入れる否か?」で大ゆれした。全くの新人をいきなり、紅白に選んでいいのか、悪いのか担当者は大いに困った。

 結果は近藤チ−フプロデユ−サ−などの首脳陣が「もう一年見送ろう」と慎重論に傾いたため見送られた。

「アンコ椿は恋の花」「あら見てたのネ」などパンチのきいた

はるみ節はかくして紅白登場を一年おくれにされたのだが、当時若手プロデユ−サ−だった私なども「これでいいんだ。」という気持ちと「ことしドンとぶつければ効果抜群なのに!」という気持が相半ばしたことを覚えている。

 かくして翌年は年間最大の売れっ子となり暮には紅白登場という形で、あっという間に都 はるみは大歌手となった。その後の順風満帆の都 はるみについては喋喋するまでもあるまい。

 はるみは唸り節といわれた特技のフシマワシをもっていた。しかし、それだけが売り物のキワモノ歌手ではなかった。

 後に「連絡船の着く港」や「北の宿から」に代表される、切々たる女心や人生へのノスタルジ−を感じさせる歌の数々でも分るように、本格的演歌歌手でもあったのである。

 のちにこの天才歌手は「普通のオバサンになりたい」という宣言をしてさっさと引退してしまうのであるが、私は「都 はるみはとても普通のオバサンになれるハズがない」と思った。彼女は日ならずして又復帰するのであるがこの引退、復帰をめぐる大騒ぎも今となってはなつかしい。

 考えてみれば、はるみの場合はやはりある種の二重性みたいなのがあってその一つは「あくなき上昇志向。名人上手目指してまっしぐら」という性格であり、もう一つはそのようなスタ−性を空しいと感じ平凡な主婦の暮らしを求める「平凡希求」という相反する性格があったからだろう。大体の人々はそのどちらかに安住してしまうのだが、都 はるみの場合はその相反する二つのねがいが余りに強烈であったので、とうとうあのような騒ぎになったのだと思う。それは都 はるみにとって大変不幸なことだった。何故なら本人がどう思うかは別として、天才をもって生まれた人は結局その天才の故に世間の人々の望む方向に歩き続けねばならないのだ。それが天才をもって生まれた人の宿命だ。

 都 はるみに「普通のオバさん」であって欲しいと思った世間の人は全くなくて、そう思っていたのは当人だけだった。天才のもつ悲劇の一つのあらわれであろう。

 天才は所詮世間の人なみに生きられないのである。天才は天才らしく生きてこそ天才なのである。