宮田 輝

 高橋圭三さんのことを書いたので、どうしても宮田 輝さんのことにふれなければならなくなった。内側の人、つまりNHKの人についてはなるべく書くまい、と思っていたのだが、、、、、。考えてみれば放送の仕事は外部の人よりも内側の人、アナウンサ−、プロデユ−サ−、デレクタ−、技術者、カメラマン、効果マン等の人たちの力がむしろ大きかったのだ。

 圭三さんが、日本の放送史上欠くべからざる存在であったとすれば、それに並んで一時代を作り上げた輝さん(テルさん)のことにふれないではいられない。

 お二人はほぼ同じ頃にNHKに入り、テレビの開始とともに輝ける二つの星となった。片や軽妙、片や重厚、こなたカミソリ、こなたマサカリ、のような差はあったが、どちらにも独特の風格があって、私のような同時代に一緒に仕事をした者にとっては、全く並列の大きな存在であった。

 圭三さんが、テレビの登場に合わせるように「私の秘密」といういかにもテレビ時代の名番組でその存在をアピ−ルした頃、一方の宮田さんは、まだそういう新しい番組には恵まれていなかった。むしろ、そのラジオ時代の持ち番組、「のど自慢」がテレビ同時放送となり、テレビでその持ち番組に更に光が当った、という所があった。

 むしろこの時期、宮田さんは「三つの歌」というラジオ番組でその持ち味を発揮しておられた感がある。勿論「余人をもって変え難い」とまでいわれた「のど自慢」という大きな舞台はあっても、テレビでは高橋さんに一歩先んじられた、という感じがあった。

「自分のテレビ番組をもちたい」という気持は、宮田さんの中に強く強くあったことは想像出きる。

 その証拠に、昭和37年だったと思うが、当時、音楽部副部長になっていた私が、甲府での「のど自慢」に審査員としてご一緒した時、東京までの帰りの車中で、「川さん、何か、新しい企画はないかね」と相談されたことからもよく分る。

 私も、圭三さんの「秘密」に匹敵する輝さんの番組を作りたかったので、話は約3時間そのことに集中した。

 私の出した案は番組を地方にもって行って、地方のお客さんの中で輝さんが、地方の人々の話をきき、歌や踊りを紹介し、東京から連れて行った歌手たちに地方へのサ−ビスとして歌をおおくりする、というものであった。「いいね、やろう。のったよ」宮田さんは大へんな乗り気だった。

 このアイデアが、のちに「ふるさとの歌まつり」という番組になる。

「おバンです!」という輝さんの挨拶で始まるこの番組は、輝さんのよさを十分に発揮した。以来、「ふるさとの歌まつり」は昭和47年まで8年間もつづくヒット番組となった。

 ただ企画者の私は、宮城県での試作番組をやっただけ、39年7月には、NHK経営のコンピュ−タ−化を目指す「番組技術システム推進本部の主管」となり、43年の異動ではドラマ番組部主管となって音楽部の仕事からは外れてしまった。

 高橋圭三さんがNHKをやめて、フリ−となり、宮田さんは名実ともに、NHKの代表アナウンサ−となった。

「ふるさとの歌まつり」、略して「ふるさと」は宮田さんの代表番組となった。テレビを通して番組を見るたびに、私は甲府からの帰りの車中で宮田さんと3時間にわたる話をしたことを思いだした。

 その宮田さんが圭三さんのあとを追うように国会入りを果された。「やめた方がいいですよ」と私は何度も説得した。だが輝さんの意志は固かった。「番組をやるよりも、何十倍、何百倍も大きな仕事を政治の場でやりたい!」といわれた。選挙の結果は予想通り、最高点の当選だった。

 しかし国会での活躍の場はそれほどたやすくはなかった。

 次第に宮田さんは憂鬱な表情になられた。そして6年の任期が終っての再選では、自民党は宮田さんを全国区の24位にランクした。

 選挙は大苦戦だった。

 全国区開票の夜、その夜のうちには、宮田さんの当選はきまらなかった。翌日開票のしかも最終段階でやっと24位まで当選となった。

「川さん、政治って非情なものだね!」輝さんは、悲しげな目でそういわれた。

 それから2年たって、輝さんはガンで倒れて、亡くなられた。

 あのまま政治の世界に入らずに、放送の世界で何とか活躍していただけなかったのか!

 それをやるのは、我々後輩の仕事だったのではないか!

 今も、ご命日の7月15日には、その昔の輝さんを囲んだNHKの部下たちが集る