七里が浜遭難事件もう一つの哀話=宮内寒弥
稲村ガ崎の海浜公園に、海に向かって二人の少年の立像が建っている。これは明治
43年に逗子開成の学生12人が、七里ガ浜の沖合いでボ−トが、転覆して遭難したのを弔い、55年忌と開校60周年を記念して、学園内とともに建てられたものである。この痛ましい事件は学生最初の遭難事件として、当時の世間の耳目を集めた。それとこの惨事を題材にして「真白き富士の嶺」として歌われたり、映画化されたりして、広く知られるようになった。宮内寒弥は小説「七里ガ浜」を書いた経緯を「この事件の責任者の一人であった亡父とその息子である私が、事件から受けた直接または間接の影響を追跡調査して、人生の終末を迎えるための身辺整理とするためであった。」としている。
寒弥の父親は遭難事件があった当時、逗子開成に赴任したばかりの地理、歴史の教師で、舎監でもあった。偶々其の日は転任する同僚を見送りに行き、留守中に舎監、生徒監など学校側の許可なくして、12人の学生がボ−トを出艇して遭難してしまった。
寒弥は事件の真相はどうであったのか探るために、当時の事件を知っていると思われる逗子開成の
O.B.や関係者にあたって、出来うるかぎり事実を突き止め、記している。父親の同僚が結婚相手にどうかと、持ち込んできた相手は、後の「真白き富士の嶺」の作詞者で、鎌倉女学校の教師、三角錫子であった。逗子開成と鎌倉女学校は、当時は姉妹校の関係にあったから、合同追悼会で両校の学生が、彼女のオルガンに合わせて歌う。不思議な巡り合わせというべきである。
父親は当局から辞職を迫られた訳ではないが、自ら辞職して、慰霊のために身一つで、四国巡礼の旅にでる。それまでの本名を隠したいこともあって、岡山で養子になる。この時出生したのが作者宮内寒弥である。
寒弥は霊魂を信じる者ではないが、この事件を中心に検証していけばいく程、因縁めいた事実に遭遇する挿話が語られている。人間の一生が目に見えない糸によって、好むと好まざるとにかかわらず、操られている例を示しているようである。
たぶんに便法上の結婚であったこともあり、父親は義父との同居は居心地のよいものではなかった。日露戦争によって日本領土になった樺太に移住。寒弥が文学に目覚め、「世界文学全集」の定期購読者になったが、父親はそれを見つけて、土に埋めるという異常な行動にでる。この父親の異常なまでに、文学忌避がどこからきているのかわかるようになったのは、ずっと後年のことである。父親は徳富芦花の「不如帰」によって、湘南の地に来たことが自分の人生を大きく変えたことから、息子の寒弥に文学から遠ざけようとした。
文学に限らず好きな事は、いくら反対されたからと言って止めるものではない。寒弥は小説家が多く輩出する早稲田の英文科に籍をおく。サハリンを舞台にした「中央高地」が昭和
10年第一回芥川賞の候補作に選ばれた。弟の自殺を書いた「からたちの花」(昭和17年)、応召した体験記「憂鬱なる水夫」(昭和21年)を発表したが長らく沈滞期を経て、「七里ガ浜」を書いた。長い文学歴であるが、流行作家とは無縁な、地味な作家である。手堅い書き方で生涯文学青年であった感が強い。関係者の話によると、純粋で、書生気質を持っていた、いい人であったと言う。寒弥は父親の死後20年して、この作品を書いたが、七里が浜の裏の室が谷戸に住むことがなかったら、この作品は生まれなかったであろうと書いている。小説「七里ガ浜」は生きて死した父親と動機はどうであれ、遭難した未来のある学生への鎮魂歌である。
宮内寒弥はこの作品で「平林たい子賞」を受賞した。その後この思い出深い腰越の室が谷戸を去って、娘夫婦と同居するに際して、家主に
「これで家賃の心配がなくなりました。」と言ったという。その後大磯に転居し数年で死去した。享年71歳。その旧居は当時のまま今もある。