高原の療養所から海浜のサナトリウム=月よりの使者

我は蔭の国へ行く 永への月の光を求めて 君は月よりの使者 地上にては余りに麗しく 余りに又冷たかりしも 今は仄かながら、遂にわがもの 我その微かなる光を抱きていく

上記の詩は、久米正雄の「月よりの使者」のヒロイン野々口時子に懸想したが、思いを遂げることが出来ず自殺を計った橋田という哲学者の遺言の一節である。この作品は久米正雄が昭和8年1−9月まで「婦人倶楽部」に連載され、昭和9年に映画化され爆発的人気を博した。主演は人気絶頂の入江たか子と高田 稔である。戦後は1954年山本富士子と菅原謙二でリメイクされた。

長野県の富士見高原療養所が前半の舞台であり、鎌倉に隣接した逗子小坪の湘南サナトリウムが後半の舞台である。富士見高原療養所は慶応大学助教授で作家の正木不如丘が首班で大正14年に開所したことで当時評判だった。また堀辰雄の「風立ちぬ」の舞台であったり、竹久夢二が昭和9年に孤独の中に死去したことでも広く知られている。

ヒロインの野々口道子は、過去に複雑な過去がありそれを忘れようとして、この富士見高原療養所の看護婦としてくる。東京から結核で静養に来ている弘田には恋人がいるが、結核とわかったために恋人の実家は婚約に反対、そんなことを知った弘田は恋人の時子まで以前のような恋情が持てなくなる。そうした時に目の前に現れたのが、患者や職員に人気のある看護婦の道子である。

時子は両親から弘田を諦らめ、結婚を勧められたので、弘田の気持ちを確かめに弘田の妹と高原の療養所に来る。

ある夜弘田は、切羽詰まって道子と病院を抜け出し、駆け落ちの約束をする。だが其の直前になって患者で道子に恋慕していた哲学者の橋田が自殺するというハップニングが生じる。そのため弘田は病院を去るが、道子は約束の時間に間に合わなくなり、療養所に残る。しかし結局そこにもいずらくなり、院長の世話で海浜のサナトリウムを紹介される。逗子の湘南サナトリウムである。

道子の新たな看護婦としての生活が始まる。だが或る日、鎌倉笹目の病人の自宅看護に派遣される。それはかって駆け落ちまで約束した仲の弘田の家であった。今は病床に臥す時子は弘田の妻となっていた。道子も弘田もあまりの奇遇に驚く。道子も弘田もそのことは内緒にしておくが、時子は道子が弘田が入院していた高原の療養所に勤めていたことを知る。

時子は弘田と道子が、かって富士見高原療養所で相思相愛の仲であったことを知っているような知らないような状態のうちに、薬物で自ら命を絶つ。その薬物は道子が、橋田が服毒自殺した時に使用したのと同じであったことから他殺の嫌疑がかけられ、投獄の身になる。だが時子は自分で毒物をあおって自殺したことがわかって、道子の潔白が証明されることになった。弘田はまた静養する身となり今度は、海の見える湘南サナトリウムで道子の看護を受けることになる。

なおこの湘南サナトリウムは横光利一の大正15年に同棲していた小島キミが入院し、死亡したところで、その死を弔った「春は馬車に乗って」の舞台でもある。