森 進一
鹿児島の「霧島ア−トの森」館長になったので、2000年10月鹿児島へ行ってきた。羽田から1時間半で空港へ着く。時代は変った!
私が初めて上京した時は、鹿児島−東京間は48時間かかった。昭和23年(1948年)3月のことである。顔中がススで真っ黒になった。思えば東京は遠かった!−そんな昔のことではないが、昭和38年に私は鹿児島出身の一人の歌手のことを知った。森 進一である。今回はその森 進一について書く。
当時、私はNHKのテレビ音楽部副部長だった。紅白も丸10年担当していたし、歌謡曲番組のチ−フとして一寸したモノだった。
その私に、ある日、チャ−リ−石黒が会ってくれといってきた。チャリ−は、既に「チャ−リ−石黒と東京パンチョス」というフルバンドの指揮者として相当有名だった。互に大正15年生まれで、私と同年だったのだ。
会うなり彼はやや興奮して話した。手にはテ−プを持っていた。
「川さん!きいてくれ。すごい歌い手を見っけた。鹿児島のキャバレ−で歌っているのを聞いたんだが、これはすばらしい!すぐNHKに出して下さい」
当時はNHKの音楽部(ラジオ、テレビとも)では月一回オ−デションなるものを実施していて、これをパスしないと一切の番組に出演は出来ないことになっていた。いかにも、情実にとらわれないという世間的ポ−ズをとったNHKらしいやり方だった。
「じゃオ−デイションにかけるね」
私はチャ−リ−にいって、テ−プをあずかった。聞いてみた。例のシャガレ声である。ウナルような節まわしである。あ、これはダメだ!
即座に私は判断した。チャ−リ−には「あの歌い手ね。あれはウチのオ−デション、絶対うからないよ!だいいちあれは歌ではない。ウナリブシだよ!」
何という失礼なことをいったことだろう。チャ−リ−はでもサラリと「そう、でもこの歌手はきっとすばらしいものになるよ!」といって帰った。
ビクタ−から登場した森 進一はあっという間にスタ−になった。あのハスキ−な声を独特な発声を魅力に変えてしまっていた。森は大スタ−になった。オ−デションなしでNHKの歌謡番組にどしどし出演し、紅白歌合戦にも連続出演する大歌手となった。アワレを極めたのは川口、わたしであった。何しろ、面と向かって「あれはダメだよ」と宣言したのだから、、、、、。
今にして思う。表面的な声質とか、変った発声に惑わされて「これはダメだ」といってしまった私の音楽性のなさ、とその歌い方の中に秘められた歌心をきちんと把握して大成させたチャ−リ−石黒。いいものをいいと判断して、その大成に力をつくした人間を、表面的なことにこだわって真の芸術性を全く理解しなかった私と、同じ年齢でいながらチャ−リ−石黒と私の間には大変な違いがあったのだ。
さて、森 進一は予想どおり期待通り大歌手となったのだが、後年渡辺プロからの独立をめぐって、芸能界から干される始末となった。当時の渡辺プロは正に飛ぶ鳥を落とす勢いである。これに逆らっては芸能界では生きておられない、といわれた。すべてのテレビ局が森 進一のレギュラ−を外し大劇場も又次々キャンセルした。
私はNHKの責任者だった。森 進一と渡辺プロとの確執は個人と会社の問題である。歌手としての森 進一のことではない。「レギュラ−を外す必要なし」私の決断だった。
かくして森 進一はNHKの歌謡番組のレギュラ−として出演しつづけた。そしておしもおされもしない大歌手として認められるようになった。あの声とあのフシを最大の武器として、、、。
のち森 進一が森 昌子と結婚した。その結婚式の来賓トップは私だった。あの時のことを忘れないで、彼は私を立ててくれたのだ。その時の挨拶の中で、私は率直にわびた。昭和38年当時の私は森 進一の真価を分らないで、オ−デションの前に不合格を宣言した自らの不明を。