クラシック作曲家と流行歌作曲家が意気投合した話

 

 50年ほど前のある晩、悲しいことがあった団 伊玖磨は、鎌倉の駅前の露地の小さな寿司屋で、一人酒を飲んでいた時のことである。 

 悲しみを吹き飛ばすために飲んでいる筈の酒が、盃を重ねれば重ねるほど、秋の夜気と呼応して悲哀が増すばかりであった。

 そのうちに心の奥の方で執拗にある唄の節が鳴っていて、なかなかそれが吹っ切れない。そのうちにフインランドでは酔っ払いのことをヨッパラッチという話を聞いたことが思い起こされた。ヨッパラッチが酔っ払いか酔っ払いがヨッパラッチか判らなくなって、そこに又あの節が頭を擡げてくるのであった。

 ふと気がつくと、先刻まで団 伊玖磨一人だけだった寿司屋の中に、いつの間にか変なおやじが座り込んでいて、こちらをじろじろ見ている。団 伊玖磨はヨッパラッチの話をこのおやじに話かけたくなったのだが、見れば見るほどこのおやじはおっかなそうで、顎鬚などたくわえているので敬遠してしまった。

 団 伊玖磨は仕方なく俯いて、なるべく鬚のおやじの方に視線を移さずにして、吹っ切れないままでいる昔の流行歌の節を小声で歌っていた。

あきらめましょと 別れてみたが

何でわすれよう 忘らりょか

命をかけた 恋じゃもの

燃えて身をやく 恋ごころ

喜び去りて 残るは涙

何で生きよう 生きらりょか

身も世も捨てた 恋じゃもの

花にそむいて  男泣き

 突然、全く突然に顎鬚が声をかけてきた。「その節を好きですか?」ときた。

「え?この節?大好きで大好きでしょうがないんですよ。全くこいつは良い節だ。先刻からね、この節が頭から離れないでね。困っちまうぐらいにこの節が良くて良くてさ」団 伊玖磨は答えた。

「本当にその節を好きですか?本当に!」「ああ、好きだとも好きだとも、この節は良い節だもの」

 鬚は、いきなり立ち上がると、団 伊玖磨の傍にやってきて手を握り、昂然と言った。

「その節はわしが作曲した!」

 その言葉を聞いて、余りの偶然さに団 伊玖磨は全く吃驚仰天してしまった。

 こうして偶然のことから友達になった。流行歌の作曲家、佐々木俊一とその夜ますます大酒をのみ、悲しみは何処かへ行ってしまった。めでたい、めでたいと言う事ことになり、挙句の果ては、逗子の奥の谷戸、小古瀬(おごせ)という処にあった佐々木俊一の家へ、真夜中になってなだれ込むことになった。

 佐々木俊一は、すっかり陽気なヨッパラッチと化してしまい、おおい、起きろ、起きろ、かあちゃんに子供達!合奏だ!合奏だ!珍客の入来だ!などと叫び、起き出して来た家族もニコニコしながら、ギタ−やウクレレやマラカスを手に、深夜の、佐々木俊一メロデ−の大合奏が始まった。

「島の娘」「涙の渡り鳥」から始まって、今夜の端緒となった「無情の夢」「新雪」「僕の青春」「長崎物語」「高原の駅よさようなら」「月よりの使者」「桑港のチャイナタウン」「東京夜曲」等の懐かしい佐々木メロデ−が次々と夜更けの小古瀬の空に昇って行き、佐々木俊一は幸福そうだった。

 やがて家族が眠られて、しんと静まり返った客間に二人は向かい合った。そして酒を飲み続けた。そのうち古ぼけたビクタ−の赤盤を持ち出してきて、それをかけた。曲は、ドボルザ−クのセロ協奏曲だった。佐々木俊一は眼を閉じて、腕組みをしながら、その音の中で、ぽっんと、

「俺は、昔はセロ弾きだった。この曲が好きだった。そして、こういう品格のある名曲を書きたいと思って勉強していた時代もあった」と言った。

「泣ける、泣ける、泣けるねえ」と言っては、また、針を冒頭にもどして、再びホルンの旋律のところへ来ると、感動にむせんで、

「泣ける、泣ける、泣けるねえ」を繰り返すのだった。

 何十回に及ぶこの果てしない行為のうちに、朝が来ていた。

 団 伊玖磨は、佐々木俊一は何度もこの曲を聴いてこういう曲を書いてくれと言いながら、無理矢理に団 伊玖磨に渡したドボルザ−クの赤盤を小脇に逗子の街によろめき出た。街には朝日がまぶしかった。団 伊玖磨は疲れていたが、しかし、心は何かほのぼのとしていた。

 佐々木俊一はその後数年して亡くなった。

 この一文を書いた数日前、団 伊玖磨は銀座で大酒を飲んだ。どういう訳か、この夜、又あの「無情の夢」の節が心の中に鳴り続けて止まらなかった。暗い酒場のカウンタ−の上に突っ伏しながら、いつまでも、小声でこの節を歌っていた。

「その節を好きですか?」そう言って訊く人はもういなかった。しかし、団 伊玖磨は、この暗い酒場の何処かに佐々木俊一が坐っていて、

「君はまだその節を好きですか?」と言っているような気がして、無性に、あの頃のことが懐かしかった。