向田邦子

 鹿児島県が、霧島連峰の西端、栗野岳の中腹、14ヘクタ−ルを切り開いて、「ア−トの森」という野外美術館を作ったのが、平成12年の10月12、思いかけぬその館長役が私にまわってきた。

 音楽のことならまだしも、美術のことは全く知らない、「とても無理です」とことわる私に須賀知事は「川口さんが専門家でないことは分かっています。あなたは少しでも多くの人をこの美術館にきて貰ってくださればいいのです」とおっしゃる。「では、」と引き受けたもののこれはなかなかの難物だった。

 以来一年。幸いに有能な副館長や学芸員と土地ツ子を含む20数名の人たちの懸命な努力が実を結んで一年たって十一万一千人弱の観客を動員出来た。1月平均一万人である。

 10月11日、鹿児島へ行った。ア−トの森は空港からは20分の距離、折りからの小春日和で木々はまだ紅葉に至らない。

 お客様を前に、一年間のお礼を申し上げた。「霧島の大自然をうんと楽しんでもらいたい。その自然の中でゆっくりと彫刻たちを時には手にさわりながら鑑賞してほしい。ここははやりのコトバでいうと「癒しの森」です」と申し上げた。事実、私がア−トの森に行くたびに、心の底から癒されるのである。

 終ってから、鹿児島市へ行った。

 明るい秋の陽射しの中で、私もゆったりと過ぎし日を思い起こしていた。

 その中で鮮烈に記憶に残っている人がいる。向田邦子さんである。彼女は昭和56年8月22日に、台湾の飛行機事故でなくなっているから、あれから20年もたってしまった。

 向田さんは純粋な鹿児島県人ではない。たまたま父親の転勤で何年かを鹿児島ですごしたにすぎない。しかし、そのすぐれたエッセ−といくつかの好短編小説が、鹿児島での家庭生活を物語っていて、さながら向田邦子自身が鹿児島県人のようである。

 向田さんがラジオからスタ−トしていくつかの作品をテレビに発表しはじめた頃、私も又NHKドラマ部長としてドラマの仕事に携わり始めていた。

 彼女はNHKのドラマも新鮮な息吹を吹き込んだ。次々と秀作が出た。和田 勉や深町幸男が演出した。その好評をきくたびに私はちょっと誇らしい感じがした。まるで自分の郷土から出たすぐれた後輩が次々にいい作を書いて大きくなっているような気がした。

 それは明らかに錯覚であるが、まるで向田邦子が私の後輩か私の同郷人のように思われたからである。

 だから、今度の旅行では、向田さんの「鹿児島感傷旅行」と同じ、サン、ロイヤルホテルに泊まって桜島を見たりした。

 昭和55年7月、向田さんは直木賞を受賞する。「思い出トランプ」「かわうそ」など一連の小説である。

 10月13日、芝のプリンスホテルで向田さんの直木賞受賞パ−テイがひらかれた。直木賞審査員の山口 瞳さんが、「向田さんはデビュ−作でいきなり名人になった」といった話をされた。森繁久弥さんは「向田さんとは特別な仲になりたい」といって皆を笑わせた。

 NHKから話をしたのは私一人だった。いささか上気していた私は、

「向田さんと私の共通点」ということで鹿児島のこと、私の母が向田さんと同じ実践高女出身であること。そして妻の小夜子が向田さんと同じ昭和4年生れであること、などをモゴモゴとしゃべった。

 何とも冴えない話であった。余り受けなかった。でも向田さんはパチパチと拍手してくれた。うれしかった。

 それから一年もたたぬ昭和56年の夏、私は夏休みの一日を皆で囲碁大会をしていた。8月22日のことである。

 偶然にも向田さんの住んでいらっしゃる表参道のマンションのすぐ近くのクラブであった。

 一と勝負が終って昼食をとっていた。

 そこへNHKの若い者が飛び込んできた。

「大変です。向田邦子さんが飛行機事故でなくなりました!」「何?!!」

 囲碁どころではなかった。

 皆で手分けして情報を集めた。

 だが詳しいことは分からなかった。

 

 かくして向田邦子さんは永遠に私たちの前から姿を消した。

 ことし、20年目ということで、妹さんの和子さんが中心になって偲ぶ会を催された。各出版社各放送局のゆかりの者たちが集った。 

 皆言葉が少なかった。

 当日いらっしゃるご予定のお母さん「せい」さんも、体の調子がよくないと欠席された。

 折りから台風が東京地方に迫っていた。雨脚の激しくなった道を東京会館から有楽町まで歩いた。

 実際は、向田さんとは話した時間も共同して仕事した時間も極めて少ない。

 だが私の中では、向田邦子の存在はいつまでも新しい。

 故郷を共にする。母と同じ学校の出身だ。妻が同じ歳だ。そんなたあいないことのつみ重ねだけでも、私にとって向田邦子さんはとてもとても親しい存在だ。

 キレギレのおつき合いでも、人間というものは、いつまでもわすれられないものだ。