栄華のあと長尾美術館と長尾よね

 昭和42年2月8日一人の老夫人が、鎌倉山の奥まった13万坪の山荘(扇湖山荘)で79歳の波瀾万丈の生涯を終えた。だがその最期は訪れた女性の知人と「久し振りにビ−ル飲もうか」「そうしよう」「ああうまい」と言って崩れ落ちた。

 この老婦人の名は長尾よね。この山荘はかっては長尾美術館といって国宝級の美術品や重要美術品が所蔵されていたことで、美術関係者の間ではつとに著名であった。

 だが、長尾よねが東京世田谷桜新町の本宅を売却し、都内のホテルやマンションを転々とした後に、最期の棲家として訪れた頃にはめぼしい美術工芸品は払底していて、垂涎の的であるようなものはなかった。

 長尾美術館も閉鎖され、一時料亭鎌倉園として営業していたころには、飛騨高山から移された桃山期の豪農の家を立て直して母家にした邸内を見学することが出来たが、今では正門が閉じられ鬱蒼とした周囲の木々に阻まれて内部を窺うことは出来ない。

 長尾よねと言っても今では知る人もすくなくなっているが、「わかもと」で知られたわかもと製薬の創業者、長尾欽也の妻である。

 わかもとの原料はビ−ルの絞り粕であり、乳幼児の死亡原因は栄養不足や胃腸障害を直す薬がなかったことから、考案されたものである。製薬に経験のある長尾欽弥が、東大の沢村真博士の指導を得て、酵母の錠剤の研究をした。原価は定価の一割であった。

 力強さ、若々しさ、健康にいい若素のネ−ミングは、長尾欽弥が、砲丸投げの選手の逞しい姿を偶々映画で見たことで、ヒントを得た。昭和4年に芝大門脇の浄運寺の庫裏が発祥の地である。女工のパ−ト13人を採用して発足。

 よねは姉さんかぶりに襷がけで、和服に割烹着、畳の上に大きな卓袱台のようなものを置いて作業する女工達を監督し、指揮した。包装が終わると、御徒町周辺の薬の問屋によねは製品を大きな風呂敷きに包んで、背負い売りに行った。

 わかもとは、「婦人倶楽部」に東大の沢村真博士の広告を載せたのがキッカケで、その効果は抜群で全国的に売れるようになった。これを期に川田姓を廃して正式に長尾欽弥と再婚した。

 昭和5年に東京世田谷桜新町に500坪の邸宅を造った。そしてその後10余年の歳月を使って、7800坪の長尾邸庭園を完成した。

 その広壮な邸宅に昭和20年12月11日から4日間、近衛文麿が荻窪の荻外荘で自害する前の日まで、逗留している。その時が、長尾よねの絶頂期であろう。

 わかもとが昭和5年、好景気の時よねは18カラットのダイヤモンドを帯留めに仕立てて一度しめたが、「ちっとも面白くない」と言って二度としめなかった。他の宝石類にも興味を示さず、ただ美術品に傾斜して行った。

 東京美術倶楽部が会社から指呼の間にあったこともあって、骨董、古美術、刀剣を買うようになる。よねは何かを美しい、面白いと感じる感覚が鋭敏かつ卓抜で、決断が速やかである。その対象は特定の分野に拘らず、のびのびしていた。勿論専門家やその道の目利きに相談することは怠らない。

 美術収集と並んで好角家でもあった。昭和7年に相撲協会が大ノ里、天竜らの改革運動で分裂騒動が起きた時、協会に1万円寄付した。二所ノ関部屋を後援し、特に神風を贔屓にした。最晩年は元若の花の二子山を贔屓にした。

 昭和12年7月の日中事変が勃発すると、わかもとは軍隊に戦闘機を献納した。そして日本軍の大陸進攻がひろまり、わかもとの需要が増大していった。昭和15年には年間の売り上げが1000万本に達した。

 よねは近衛はじめ陸海将官であろうと右翼、浪人、芸者、力士と同じ感覚で付合っていた。そこには人間の上下などには無頓着であた。

 昭和19年末には本社が空襲で焼失したので、美術品を鎌倉山の別荘の地下に移した。昭和20年8月15日を境にわかもとは、一変した。中国、朝鮮にあった工場がなくなり、都内の工場も焼けてしまった。

 戦後は、よねは芸能人、文士、画家らと交際するようになった。中でも児島喜久雄、里見 とんや芸妓、力士と深い交わりを持った。

 昭和34年、ある会合で倣岸で知られた魯山人とよねと隣合わせに坐った。一言二言言い合っているうちに、よねは「ばかいへ」と言ったかと思うと、よねの手が魯山人の頬を打った。その後まもなく魯山人は孤独のうちにこの世を去った。

 かってはよねは「わかもと奥さま券」と言うのを考案し、枚数によって、魯山人の制作した徳利や盃を景品として出したことがある。魯山人が星岡茶寮の料理人を追われたころによねは、魯山人を陰で支援した。わかもともこれによって、売り上げを伸ばしたことがあった。

 長尾よねの収集した美術品や刀剣は、美術商の手を経て各地の美術館や著名なコレクタ−に収まった。

 昭和30年、4半世紀住み慣れた桜新町の長尾邸は6000万円で、売却されその後10年は都内を転々とした。渋谷の近くのアパ−トは長尾夫婦は比較的長く住んだ。その後住んだ芝大門の日活アパ−トは、わかもとの創業の地の近くであった。昭和40年頃には原宿のセントラルマンションに移った。この頃はよねは糖尿病を患い、目を悪くしていた。東京の最後の棲家はホテルニュ−ジャパンであったが鎌倉山の別荘に落ち着き、それ以後は外出することはなかった

 長尾よねは自らの出自については、詳しくは語らなかったが、その生涯は長尾欽弥と二人三脚で産を成した巨万の富を美術品に注ぎ、各界のパトロンとして応援し、職業、身分には拘らず周囲の人々を楽しませた文字通りの女傑であった。

 昭和17年から22年まで長尾邸に働いていた女中に偶々鎌倉の街であうと、里見とんは「おはっちゃん、あの頃が一番たのしかったなア」としきりに当時を懐かしがったという。ここを訪れた鎌倉文士は勿論、各界の名士は殆ど鬼籍に入っている。