仲代達矢
3月7日、池袋のサンシャイン劇場に行った。劇団「無名塾」の公演「ウインザ−の陽気な女房たち」である。久しぶりに仲代に会える。少々ワクワクしながらサンシャインへ向かう。
池袋駅からすぐだ、と思うとこれがなかなかどうして道が遠い。クネクネと地下道を通り池袋駅の東口の地上へポッカリ顔を出すともうすぐだ、と思うのだが、それから又、クラリクラリと道は遠い。
何度もこの劇場には来ているから分つているのだが、JR池袋駅のホ−ムに降りてサンシャイン劇場の入口に着くまでにやはり15分はかかる。足を悪くした私などは20分もかかった。
昔、若い頃は走り出してもよかったが、今はそうはいかない。走ったら又足を挫きそうだ。−従って、サンシャインの時は藤沢の自宅を2時間前には必ず出かけることにしている。
この日も用心していたから30分前には劇場の入口に着いた。
入口には、仲代さんのなくなった奥さん「宮崎恭子」さんの妹さん「宮崎総子」さんがいらっしゃった。
「お久しぶり」「お元気ですか」に始まって「川口さん、始まる前に仲代に会って下さい」といわれた。「?」「いえね、こんどの役は衣裳が大変なんですよ」「?」
「ま、ごらんになって下さい!」
楽屋へ伺うと、すっかり出の仕度をすませた仲代さんは、巨大なフトッチョ、フアルスタッフになりおおせて、額の汗を拭っていた。
握手してびっくりした。元々雄大な体格ではあるけれども、このたびの扮装は沢山あるシェクスピア作品中でも又とないフトッチョで体格抜群の人物だ。握手して目の前に仲代さんが(いやフアルスタッフが)立った時はギョッとした。身の丈は1メ−トル90か体重は120キロと見た。どこもかしこも肥え太って全身これ脂肪の塊だ。
「よくいらっしゃいました。お元気ですか」仲代さんはキチンと挨拶をされる。
「どうか、たのしんで見て下さい」
仲代の特長の一つはギョロッとした大きな目だと思うのだが、その目さえ、そんなに大きくは見えない。如何に巨大なフトッチョになったが、よく分るではないか。握手をして早々に客席へ廻った。
シェクスピアの作品の中ではたった一つの喜劇だという。あの時代のウインザ−の雰囲気の中に交錯する人間たちの喜劇!
久しぶりにたのしく見た。欲をいえば、この劇団の大まじめなところが折角の大喜劇をスケ−ルの小さいものにしているように見える。
無名塾の若者たちよ。奔放に、時にノンコントロ−ルに見えるような演技をしてくれよ。そう思った。
仲代のフアルスタツフはお見事だった。何ともいえぬ愛嬌をただよわせている。だが若い子たちは、もっとハチャメチャでいい。いや、そう見えるような意気の良さがほしい。
駅までテクテク歩きながら、仲代の夫人で作家でもあり演出家でもあった宮崎さんのことを思った。宮崎恭子さんは、作家名と演出名を龍巴(リユウトモエ)という。おとなしい宮崎さんが一旦、龍巴になると、何と力強い力を発揮されることか!いつもびっくりしていた。
仲代もそのすばらしい奥さんを如何に大切にしていたことか。だが恭子さんは平成7年にガンで逝かれた。私の妻の小夜子も平成6年ガンで逝った。宮崎さんのことを思うと、私も妻のことを思いだす。つくづく惜しい人をなくしたなア、と思う。
でも仲代さんよ。
お互いに、亡妻のことを胸にしまってしょつちゅう思い出しながら、のこりの人生を歩こうよ。
思えば仲代と初めて逢ったのは昭和48年だから、もう30年近くになる。私はドラマ部長になって3年目だった。「新平家物語」を大河ドラマでやることになって、その主人公平清盛に起用したのが仲代だった。
はじめのロケが宮島であった。あの朱塗りの社殿で、仲代は颯爽と若き日の清盛を演じた。
「これはいい。これは本物だ!」
私の率直な感じだった。
仲代は、一気に波乱に富んだ清盛の生涯を演じきった。
それから彼は新しい役をやる度に私を呼んでくれた。無名塾を作って見事な若者たちを鍛えあげた。その裏に恭子さんの力があったことを私は知っている。
だからその後のすばらしい仕事の数々は恭子さんとの二人で作り上げたものだった。
今、恭子さんはもういない。
大きなフトッチョのフアルスタッフに扮した仲代さんのすばらしい虚像のかげに、私は恭子さんを失ったかなしみを見る。
仲代さん、しょつちゆう恭子さんの話をしようよ。そして力一ぱいこれからも生きようよ。