並木路子
三波春夫さんに先立って一足お先に、とばかり、並木路子さんが逝った。
終戦直後の「リンゴの唄」の大ヒットのあと「森の水車」も大当りしたし、容姿はよくチャ−ミングな女性でもあったから、今に大歌手になると皆が期待していた。
私のテレビ音楽部入りは昭和二十八年だから同期の人物としては少々おくれている。
並木路子さんも28年のテレビ開始の頃はもはや全盛期ではなかった。しかしその名声の大きさと、風姿のよさで当然一流にランクされていた。
私など並木さんの一人のフアンだったのだが、何しろテレビの初期はいきなりベテラン達の登場で彩られた。男でいえば藤山一郎、岡晴夫、霧島 昇といったところ、新人で三浦 一、春日八郎、三橋美智也がいてなかなかのスタ−勢揃いだった。
一方女性たちには越路吹雪、市丸、松島詩子、三条町子、菅原都々子、勝太郎、暁 テル子の大ベテランに続いて新人としてあの
大スタ−美空ひばりが出る。つづいて雪村いづみ、江利チエミがいた。新人も続々登場してくるという時代。
その中で並木路子さんは大ヒット「リンゴの唄」で一躍ラジオの人気者になったのだが、如何せんテレビの時代がくるのが遅すぎた。
「リンゴの唄」は元々映画の主題歌だった。そしてあっというまに全国津々浦々に行きわたったのだが、テレビの時代になった上記の面々が一斉に出てくる、と一寸影が薄くなった。一番勢いの出る時期とヒット曲が重なるといいのだが、そういう意味では「リンゴの唄」は早すぎた大ヒットなのだろうか。
段々と飢えの時代がすぎると「もう戦後ではない」とばかり歌謡界も次のスタ−の時代になってゆく。並木路子はかくして第一線から次第に消えていくことになった。
しかし彼女は持前の素直さと面倒見のよさでも発揮して、日本歌謡曲協会などでは副会長としてまとめ役をやったりした。
古賀政男財団がやっている大衆音楽の殿堂でも選考審査委員や運営委員会で必ず候補にはのってくるのだ。ずっと落された。それはヒットの数が「リンゴ」と「森の水車」の二曲しかないじゃないかという理由であった。
平成十三年ではとうとう入堂なさった。何人かの委員が「歌の価値はヒットの数だけではない」、歌唱のよさだけではない」「時代に対し、社会に対しどれほどの影響をあたえたかも大きな要素だ!といったためである。
私も当然この説を強く主張した。
結果、並木路子さんは見事に「大衆音楽の殿堂」入り果した。病床の並木さんにそのしらせをもって行ったら極めておよろこびになったそうだ。
今大評判の佐藤愛子さんの著「血脈下」にもこんなエピソ−ドが書いてある。
「それにしてもサト−ハチロ−という人は困ったもんだなあ。「赤いリンゴに唇よせて、だまって見ている青い空」だって。なんですかこれ!リンゴは何にもいわないけれどリンゴのキモチはよく分る!何ですかこれ!!リンゴのキモチって俺にはわからないよ。そこへもってきてリンゴかわいや、かわいやリンゴ、、、、なんですこりやあ!、、、、口から出まかせもやすみやすみしてほしいね」
昔あった渋谷の「とん平」というところで飲んでいた詩人の久保のことばらしい。しかし皆は「しかしリンゴの唄は人口膾炙したよ。敗戦で沮喪していた日本人はこの歌で元気になった」といった。「それから歌がいい、並木路子がいい」という声があったという。佐藤愛子著(血脈下巻53ペ−ジ)
私たちも同じ論旨の選考委員会をやった。そしてめでたく今回は当選したのだ。