猫が命を救った話

 浪花千栄子が女優になる前の話である。大正4、5年頃9歳であった浪花千栄子は、17歳の春まで8年間奉公先で寝る時間も満足に与えられず、コマネズミのように働いていた。主人公のあまりの理不尽な言動に腹を立てて、或る時自殺を試みた。

 自殺の場所は便所であった。家庭の事情で、小学校教育を受けられなかった千栄子は、便所はルビのふってあった新聞の漢字を覚える場でもあり、一人になれる場でもあった。

 死の手段は便所の梁に自分の帯をつりさげ、首をくくることにした。悲しそうな覚悟で便所へはいり、ふと前方の窓の敷居に目をやると、蟻が一匹はっていた。よしこの蟻が端まではって行ったら、足の台をけろうと思ってしたくをしていた。

 千栄子はその時の心境は案外じめじめしたものでないという体験をした。だがその時こと志と違って、他動的にを断念する椿事に遭遇した。

 奉公していた家で、千栄子が可愛がっていた猫が、蟻がノロノロ真ん中へんをはっている時、どうしてかぎつけてきたのか、便所に入ってきてニヤアニヤアないて千栄子のすそをくわえてひっぱるのである。なきながら、いつになく人なつっこく千栄子にまつわりつく猫を「私は今、お前をかまってやるどころじゃないのだよ」と、なかばはしかりつけて、何度も追い払おうとしたが、いつかな千栄子のかたわらを離れないばかりか、あべこべに、じゃれついてきた。

 さあもう、そうなると死に対決するきびしさは、さあっと霧のように何処かへ消え失せてしまった。「お前のために、気イが抜けてしもうたやないの。死ぬのんは、またこんどにしょ」と、事実ありていに言うと、一度に「おこり」が落ちたようにケロリとした気持になって、死というものを真剣に考えた半時間前のことが、他人事のように、自分から遠いものに感じられた。

 そう言うことがあって、浪花千栄子は、猫は命の恩人と思って生涯猫を可愛がったという。