山本直純
6月19日、うちにいてテレビの昼のニュ−ス見ていたらビックリした。
山本直純さんが亡くなった。
この前、お会いした時、ゲッソリやせていたので、皆が心配して「大丈夫?」と口々にいうと、例のガラガラ笑いをしてから「まだまだ、死にませんよ!」と皆を笑わせた。
その時、何か不安の影が私の心をかすめたのだが、「さ、行こう、行こう。川さんも少しだけつき合ってよ」うながされて新橋のバアまでついて行ったのだが、、、、。やはり不安は適中した。
ああいった時の直純さんは、いつもよりはるかに元気に見えた。だがムリして元気ぶっているのもよく分かった。「直純さん、無理に元気ぶることないんだよ。よかったらここでお別れしょう」
そういっても、直純さんは必ず無理する人だった。昔は、そのムリにムリを重ねて再び元気をとり戻す人だったのだが、、、、。
テレビを見ているうちに、昭和41年から42年頃のことを思い出した。昭和39年、当時は、私は音楽部の副部長、「夢であいましょう」もチ−フプロデユ−サ−(CP)として担当していた。
折から、左翼運動の盛り上がりに、国内が騒然としてきていた。テレビをめぐる状況もどんどん変りつつあった。「夢であいましょう」のようなウ゛アラエテイ番組なども、又自由奔放には作れないような雰囲気があった。
一々上からチェックされながらヴアラエテイなんか作れるか!私も血の気が多かったからそんな雰囲気が一番イヤだった。
「夢であいましょう」をやめて「音楽の花ひらく」をやることになった。
今度は純然たる音楽番組にしようと思った。「でもありきたりの音楽番組ではいやだ」末盛デレクタ−とCPの私は、何度も打合わせを重ねた。その結果、型破りの指揮者山本直純さんに出てもらおう。司会もおよそこの世界には縁遠かった人にやってもらおう。「三橋達也さんはどうだろう?」「うん、それでいこう」こんな調子でどんどんきまって行った。
かくして昭和40年4月「音楽の花ひらく」はスタ−トした。
この番組でやはり一番、視聴者の注目を集めたのは「直純」さんだった。
ヒゲをはやして、色物の上着を着て、時にピョ−ンと飛び上って指揮棒を叩き付けるように振る。時々話の中に入ってきては大口を一ぱいあけて「ガハハハ」とやる。
およそ四角四面をすべて叩きこわしたような直純さんは、大拍手をもって迎えられた。(勿論、世の中には色んな人がいる。「今までのNHKのスタイルの方がいい。指揮者は下品だ。きちんといい音楽をやれ」などという声は一ぱい聞こえてきた。
結果は、やはり一番売れたのは直純さんだった。「やめさせろ!」「うるさい!」という声の一番多かったのも、又直純だった。
踊る指揮者−規格破りの音楽家−等々の批評が世界を賑わした。
アッという間に直純さんは人気者になった。「大きいことはいいことだ!」という直純さんを前面に出した広告も大当りした。
直純さんは決して大マカではない。型破りでもない。きちんと音楽を大事にし、よく調べてこられた。でも表現はドンと派手になった。そして直純さんは大人気者になった。
ことし久し振りに会った直純さんは、昔の面影のさらさら伺えない姿だった。
「直純さん、どこか悪いの?」
「ウン、糖尿病だってさ」
「糖尿病なんてたいしたことないよ。直純さん、又飛び上がったらいいよ」
「ありがとう。川さん」
そして新橋の彼の巣に行って飲んだのだが、成程、若い日の飲みっぷりとは全く違っていた。
今、彼になくなられてみると、もう一度元気になってもらって、又独特のリズムをもった音楽を作ってもらいたかった。
何よりも、笑顔一ぱいでゼスチャアの華やかな指揮を見せてもらいたかった。
もう今となっては、30センチも飛び上れないだろう。じゃ今度は横飛びでも何でもいい。直純さん独特の「振り」をつけて我々を楽しませてほしかった。
享年69歳!まだ若かった。