日本舞踊との半世紀

 今年も又、2月11日からの日本舞踊協会公演に出かけた。去年までは何も関係なかったのに、一日はタップリ見ることにしていた。ことしはこの協会の顧問に就任しているのだから見ないわけには行かない。三宅坂の「国立劇場」に行くと、まず花柳滝蔵さんに会った。「オや、しばらくですね」といわれる。そうだ、滝蔵さんとは昭和38年からの「歌のグランドショ−」で振付け師としてお願いした。「お互い、あの頃は若かったですね!」ということからご挨拶が始まる。

 私のチ−フプロデユ−サ−としての仕事は「歌のグランドショ−」から始まっている。古いNHKホ−ル(内幸町にあった)を使っての歌謡ショ−倍賞千恵子、アントニオ古賀、の二人が司会で何人かのコメデアンもレギュラ−で出てくる。まことに賑やかなショ−だった。

 今でこそ、歌あり、おどりあり、コミカルありというのは、一ぱいあるが、昭和38年当時はとても珍しい番組だった。

 金井克子はこの番組でデビュ−したが見事なプロポ−ションとダンスでお客さんを魅了した。彼女がスピ−ンをするときはスカ−トがパア−ツと広がって長い足の奥が見えた。

 今週の彼女のパンツの色は何だというのが一しきり週刊誌の話題になった。おっちょこちょいの私も控え目ながらこの話をPRに使ったことがある。

 金井克子のおどりと、アントニオ古賀のギタ−この二つが最大の売り物だった。

 ところがコメデイアン達の気合いがあわない。鳴り物入りでスタ−トしたこのグランドショ−しばらくは大変な不評だった。

 局長の長沢泰治さんはある日CPの私を局長室に呼んだ。恐る恐る局長室に入った私は身を縮めていた。叱責されると思った局長のことばは意外なものだった。

「お前なア。一生懸命やってるんだろう?」

「ハイ、一生懸命です」

「じゃあ、何がうけていて、何がダメなのかよく分かってるな!」「ハイ」

「任したよ。思う存分やってくれ!」

自分の席へ帰るとスタッフがかけ寄ってきた。

「局長はお前にまかす、といわれたよ。思い切った改革をやるから一緒にやってくれ!」

 思い切ってコメデアンを大整理した。

 出きるだけテンポのよい歯切れのいい演出に徹底した。

 かくして一ヶ月たってみたら、見事に番組は復活した。局長のひとことは我々若い連中の自発的改革の志をうながしたのだ。

 7月には30%をこえた。そしてこの歌のグランドショ−は6年続く長寿番組となった。金井克子やアントニオ古賀もスタ−となった。

 そういうイキサツのある「歌のグランドショ−」、そういえば、日本舞踊の時の振り付けは花柳滝蔵さんだったのだ。

 

 花柳寿楽さんは、花柳本流の大黒柱だ。若い頃から切れのいい踊りで大方をうならせた。

 私は局長の頃、お知り合いになった。話もお上手、踊はうまい。人柄がすばらしくいい。この寿楽さんのお好きなのがゴルフだった。市村羽左衛門さんが好敵手で、「唯今、私の百十五勝百十敗!」などと克明な報告があった。その羽左衛門さんももういない。

 いない、といえば寿楽さんのご不幸はご自分が寿楽になった時、ご子息を錦之助になさった。私たちはこれで寿楽さんもご安心!と思ったのだが、何とご子息がアッという間に他界された。寿楽さんの嘆きは大きかった。

 こんどの公演では、その錦之助さんの息子さんつまり、お孫さんが錦之助を襲名され、もう一人のお孫さんの典幸さんとで「伊勢詣り」を踊られた。

 さすが寿楽さんの血をひいて見事だった。

 

 親子といえば吾妻徳穂さんのお孫さんの徳弥さんも「松の羽衣」を踊られたが、これはまことに立派なおどりだった。

 ひそかに相手をおくりながら徳穂さんのことを思った。

 

 私が邦楽系の番組をやった頃、若手中の若手だった花柳 寛さんが、花柳芳次郎となって大きな存在になっている。

 芳次郎さんと昔話しながら、歌舞伎や日本舞踊や能や狂言のように、伝統を守って家の芸を継承してゆく日本型の芸のあり方の大きなプラスの面を考えていた。