苦悩の果てに安らぎ=西田幾多郎

「七里ガ浜夕日漂う波の上に伊豆の山々果てし知らずも」これは西田幾多郎が、晩年よく散策した鎌倉七里ガ浜の、海岸沿いに建てられている歌碑に刻まれたものである。西田幾多郎が鎌倉稲村ガ崎に移住したのは、昭和3年に京大を定年退職し、数年京都と鎌倉を往来した後の昭和8年のことである。それから死去した昭和20年までの間、数々の哲学論文を発表し、新たな境地を切り開いたと共に妻や子供と死別後に再婚し、家庭の安らぎを味わう事ができた。「海辺をすこし行くと行合橋の裏に静かな暖かな小さい谷があり、午後そこに出かけ藁の上にねころんでいます。人一人いないので自ら空想の世界に入ります。、、、、、、、、人間はどんな小谷間でもそれぞれに静かな楽しみがあると思います。」と旧友に宛てた書簡がある。どこにでもある草花や何でもない場所に、心惹かれて独自の小天地を見つけ出すそれこそがその人の境涯と言えよう。

この鎌倉を選んだ理由は60年来の旧友鈴木大拙が、北鎌倉の松が岡にト居していたことであった。金沢の四高時代は幾多郎にとって最も愉快な時期であった。意気軒昂な明治の青年の風貌を伝える写真が残っているが、大拙はそうした朋輩の一人である。また鎌倉は古都でも京都のように優雅でなく、鄙びた廃虚の趣があるところがいい、とも幾多郎は言っている。京都の「哲学の道」とはこの姥が谷とは対照的である。当時と今では変わってはいるが、その残映はうかがえる。

西田幾多郎は明治3年、石川県宇ノ気町の旧加賀藩の十村役を務める家に生まれた。明治16年に石川県師範学校に入学のため金沢に移る。明治19年に後の旧制四高に入学。この時代に北条時敬に出会い公私共に影響を受ける。また藤岡作太郎、山本良吉、鈴木大拙らと「我尊会」を通じ回覧雑誌で切磋琢磨する。行状点欠少で落第。学問は学校に行かなくても、読書で出来るとの考えを翻意し明治24年に東京帝国大学文科大学の哲学科選科に入学。選科の学生は図書館でも室内に入れず、廊下で読書するといった屈辱を味わう。 この間に生家が没落。卒業後郷里の中学の分校で教鞭をとる。明治29年に結婚。父親との軋轢に悩まされる。離縁、禅の修行を始める。復縁その間に子供が誕生。明治29年に第四高等学校の講師、明治32年に教授に昇格、この後10年間は幾多郎にとって最も人生の良き時代であった。

明治34年の日記にはこのように記されている。「午後憑次郎(弟)来り、子供の写真をとりなどす、天気よく心地よし菓子を食い過ごす。薄暗きランプの下に一家膳を並べて食す、何となく床し。人間の至楽は高屋にあらず、風景にあらず、ただ無事平常の中にあり。月美に天清し、夜練兵場を散歩す。」

こういう仕合わせの中に日露戦争で弟の戦死、子供の相次ぐ死が襲う。明治39年に「善の研究」を発表。幾多郎36歳の時である。大正2年に京都大学の教授になる。大正8年に妻寿美が脳溢血で倒れ、5年間の闘病生活後に死去、9年には長男が死去する。

関係者が幾多郎の孤独な生活を見かねて、昭和6年に岩波茂雄の仲人で山田琴と再婚する。ここに晩年の安らぎが到来する。昭和11年に西田哲学の頂点とも言うべき「論理と生命」が発表される。

西田幾多郎の長女弥生は、死ぬまでの10数年父親の生活は、琴夫人なくしては考えられないと、陰になって幾多郎を支えたことを認めている。弥生が死去した昭和20年4月に遅れること2か月、幾多郎は6月7日に逝去。「人生の悲哀」「人生の落伍者」「人生はトラジック」と幾多郎は75歳の人生の折々に語ったが、禅の修行と思索と読書によって、幾多の試練を乗り越えて、人生の眞味を味わって生を終えた。

遺骨の一部は、大拙ゆかりの松ヶ岡の東慶寺に埋葬。指呼の間に岩波茂雄、鈴木大拙、和辻哲郎が眠っている。大拙は「永遠の沈黙を守る彼に還ったその姿、自分は思わず慟哭せずには居られなかったのである。、、、、思い起こせば随分長い間の交際であった。十六、七歳の頃からいままで続いたのであるから、ざっと六十年と見てよい。、、、」と回想している。その大拙も死去して32年、死しても仲良く、共に永遠の眠りについているのは珍しくもあり、羨ましい。