のど自慢日本一イン霧島(1)
5月26日、日曜日、快晴。
鹿児島県霧島山麓、牧園町、さわやかな一日だった。ここご自慢の音楽ホ−ル「みやまコンセ−ル」で「のど自慢日本一チャリテイ、コンサ−ト、イン霧島」という催しを開催した。
主催がNHKのど自慢日本一の会。共催者として地元三町、牧園町、霧島町、栗野町とそれぞれの教育委員会。そしてみやまコンセ−ルである。
NHKのど自慢は終戦直後の昭和21年にもう始まっている。東京千代田区内幸町のNHKは、まだ一部にアメリカ占領軍が入って放送内容にも一々アメリカ
CIEの検閲が入る、という時代である。その時代にもう「のど自慢」という番組が始まっているである。これは「びっくりもの」である。この番組のプロデユ−サ−は三枝健剛さんという。兵隊に行って復員してきた三枝さんは、内幸町の放送会館に半分寝泊りしながら、ラジオの仕事を始めた。
戦争中の日本のラジオはきびしい統制の下にあった。何しろ「放送は逓信省これを管掌す」という法律によって統制されていた。逓信省からきている監督管によって検閲され、きびしいチェックを受けていた。
昭和20年の8月、日本の敗戦によってその姿がガラリと変った。といっても一ぺんに解放されたわけではない。日本政府に代ってアメリカ占領軍の
CIEによって管理されることになったのである。勿論、その管理のしかたは戦時中日本政府のやったこととはまるで違うものではあったが、でもやはりコントロ−ル下にあったことは間違いない。私がNHKに入った昭和25年では、まだ放送会館の二階に
CIEのいる部屋があったし、CIEのアメリカ人に放送の基本を教わったものである。兵隊から復員した三枝さんは勿論戦時中に放送協会に入ったからきびしい統制の下で番組を作っていた。復員してきた三枝さんは、新しい番組を作ろうと思い立った。その脳中をよぎったのが軍隊時代の余興大会であったという。
いろんな職業の人が集っていた。年配にも大分違いがあった。その人たちが時々催される余興大会の時、ハ−モニカやアコ−デオンの伴奏でうたったたのしい歌声が忘れられない。その瞬間だけは軍隊のきびしい生活の中にも笑いがあった。歌えるよろこびがあった。落語や浪曲じまんの兵隊もいて、たくさんの観衆が、戦いの場ということも忘れて、心から笑い、拍手していた。
「そうだ、あれだ。あれをやってみよう」と三枝さんは考えたという。だが提案してみると「ムリじゃないか」「歌どころじゃあるまい」「日本の人たちはマイクの前では歌えないよ」という声があがった。「いやそんなことはない。軍隊の中でだって慰安会が成立したのだ!」
そして昭和21年には「のど自慢素人演芸会テスト風景」がもう始まっている。終戦からまだ半年である。内幸町には長い列が出来た。皆よれよれの恰好をしていた。でも何とか飢をしのいでスタジオに集まった。
プロデユ−サ−は三枝さん、アナウンサ−は大野 太郎さんであった。
皆懸命に歌った。唸った。語った。今はもう「素人音楽会」となっていて歌に統一されているが当座は、浪曲あり、落語あり、漫談ありだった。
ここで、困ったのは大野さんだった。「ハイ、ダメ」という合図が出る。大野さんは丁寧に「ハイ。ありがとうございました、結構でした」勿論大野さんは「ダメでした」という代りに「結構でした」といったのだが大方の出場者は、この丁寧なことば誤解して「合格」と思ってしまう。初期ののど自慢はどうやって途中でやめさせるかが大問題だったのだ。
当時事業部にいてこの番組にかかわっていた翠 敏夫さんはいう。
「皆で、一生懸命考えたんです。そして鐘を叩こう。一つが残念でした。二つがもう一息です。三つが合格!これなら分り易い」
早速この方法が採用された。
かくしてのど自慢は人気番組となり、早くも、昭和23年には全国コンク−ルが実施される。24年の第2回では歌謡曲の部で「南の花嫁さん」を歌った荒井恵子が第一位となり、荒井さんはのちにラジオの「陽気な喫茶店」のレギュラ−となり、内海突破、松井翠声と並んで大人気者になった。
「のど自慢」はNHKが作り上げた戦後第一番目のヒット番組である。
この番組の企画者がプロデユ−サ−の三枝健剛さんは今は亡いが、そのご長男が作曲家であり、エッセイストの三枝成章さん。ご次男がドラマ演出家、三枝健起さんである。