のど自慢日本一イン霧島(2)

 私は、昭和25年NHKに入り福岡放送局勤務となった。そして28年2月1日、NHKテレビ開局、同4月には私も東京テレビジョン局芸能部へ転じた。私の配属は音楽班だった。何ということ。ドラマをやりたいという私の希望は一顧もされず、歌謡曲、ジャズ、民謡。クラッシク、シャンソン、ラテン等々を担当することになる。

「のど自慢」は一、二回アシスタントとして参加する程度だったがのちに審査員として加わったり番組制作局長としても全体をみることになったので特段に関心を寄せるようになった。

 一つは「のど自慢」の司会者、宮田 輝さんへの強い関心があった。ドラマに転ずる一年前「ふるさとの歌まつり」という企画をたてて宮田さんと一生懸命に相談した。私はドラマに転じたのであとは関係のチ−フプロデユ−サ−が担当したのだが、のど自慢にも大きな関心を持っていた。のど自慢の受難は昭和40年代の半ばから始まった。

 宮田さんが「ふるさとの歌まつり」に転じて司会が変ってから目に見えて変化が起った。それまでは満員だった客席がガラガラになった。

 歌う出場者もどんどん減っていった。45分間の放送時間を埋めるには大体25人の出演者が必要だった。カネ一コ、二コ、三コ、適当な会話を入れて構成するのだが25人というのが大体の目安だが、私が審査員として参加した相模原ののど自慢では、たった13名という時があった。

 会場へ行って見ると500人は入る体育館がせいぜい50人、ガラガラである。

 ナマ放送だから大苦心した。間はあくし、会話は間のびがする。若手の司会だから拍手は湧かない。茫然として「ナンダコレハ」と呆れた。

 そのあと私はドラマ部長になって、芸能局の会議に出ると「のど自慢、そろそろやめ時だね」という話になった。

 こののど自慢の危機を救ったのが金子辰雄アナウンサ−であり、丸山茂樹デレクタ−であった。丸山君は、のど自慢改革の案として、一、有名歌手を二人つれて行く。二、金子アナに司会させることを提案してきた。

 かくして、のど自慢は再び盛り上ってきた。金子君は出演者と同じ心でステ−ジに立って、その喜びを一緒にあらわした。再びのど自慢に活気が戻った。金子アナウンサ−はその後定年でやめるまで17年にわたってのど自慢を担当した。

 素人の中に入った有名歌手はのど自慢の大きなおみやげになった。

 私がNHK会長になった平成3年、案内がきた。「のど自慢日本一の会」からだった。「渋谷の地下スタジオで日本一の会をやる。きて下さい!」というお誘いだった。

 行ってみた。暗に、いわゆる「アングラ、スタジオだった。暗いスタジオで、でも歌の好きな、かっての日本一たちは一生懸命うたっていた。何十人かの客がパラパラと拍手を送っていた。でも彼らは力のかぎり歌っていた。歌うことに、そして聞いて貰うことに大きな「よろこび」があるのです、といわんばかりだった。

 私は胸をうたれた。この「歌好きの人たち」に何とか歌うよろこびを与えてやりたい。

 たまたま私が理事をしていた古賀政男音楽財団に「けやきホ−ル」という小ホ−ルがあった。客席は250しかないが、音響設備はなかなかいい。「ここで日本一の会をやろうよ」皆は全員で賛成だった。そして毎年3月「日本一の会」がひらかれた。

 熱心な皆の熱意を汲んで、NHKが録音して、それを編集してラジオの「深夜便」の中で放送してくれた。皆は懸命に歌った。ことしで三回、すっかり定着していい行事になってきたと思う。

 霧島の日本一大会はその連続の上にあったのである。たまたま霧島ア−トの森館長をやっている私がその「場」を霧島に作ることにしたわけである。

「のど自慢日本一の歌手チャリテイコンサ−ト.イン霧島」はかくしてこの5月26日に開催された。たしかにいいホ−ルだった。客もよく入った。招待した三町のお年寄りも合せて300人大いに楽しでくれた。私のカンで「これはいい」と思った。地元の23歳の大江錦之助君も女装の踊りと男装の踊り二つとも大拍手を受けた。

 翌日、皆でバスで霧島山中を走った。牧場でバ−ベキュ−も食べた。

「又やりたい」みながそういっている。皆歌うのが好きなのだ。

 私は又何とかもっといい場を作ってやりたい、と思う。歌を歌うたのしみ、歌を聞くたのしみ、その場を作ってやりたいのだ。