小畑 実
この原稿を書いている時、ちょうどシドニ−オリンピックが始まった。開会式の中で韓国と北朝鮮が統一旗の下で一緒になって行進してくるのを見た。
長い日本の統治下の苦労が終ったと思ったら、南北分断、一つの民族が分れ分れに住むことの辛さ悲しさは、どんなだったろう。それだけに今回のオリンピックでの統一行進は私の胸に響くものがあった。
テレビを見ているうち、私の記憶の中に二つのことが思い起されてきた。
一つは旧制高校の同学年にいた豊川高光君のこと。彼は朝鮮の中学を出て旧制七高に入ってきた。例の創民改名で、豊川になっていたがやはり終戦になるとサッと朝鮮に帰って行った。その後の消息は全く分らないので、同窓会名簿でも(不明)となっている。なかなかしっかりした若者だったからその後は北か南か分らないが、一かどの人物になったであろうに。
もう一つは歌手の小畑 実さんのことである。戦前「湯島の白梅」で大ヒット歌手となり、ついで「勘太郎月夜歌」が大流行した。
あの一寸舌足らずのような(いや舌が長いと表現すべきか)甘い歌声は当時の歌謡界では珍重された。
フランク永井は低音の魅力だが、もし高音の魅力で聞かせた歌手は?と聞かれれば、ためらいなく私は答える。戦前から戦後にかけては小畑 実、そのあとは三橋美智也だ、と。
その小畑さんは朝鮮の出身だった。従って日本語が少々危っかしく、独特の口調があった。私は七高時代の豊川のことがまだ記憶にあったので、朝鮮出身の人には人一倍親近感をもっていた。だから、いつの間にか小畑さんと仲良くなった。彼もそれにこたえるように人一倍私のことを親愛感をもって接してくれたようだ。
テレビ開始の頃の彼のヒット曲は何といっても「高原の駅よさようなら」だろう。高原のひびきをたのしむように、小畑さんはこの曲をいかにも楽しげに歌った。
だが彼はその若さをいつまでも保持することは出来なかった。ゴルフの好きな小畑さんは、東京近郊のさるゴルフ場で朝の第一球を打ったあと崩れるようにテイ−グランドに倒れたという。まだこれから円熟という時に倒れた小畑さんの無念さはどうだったろう。在日朝鮮人として周囲の偏見と力一ぱい闘ってきた小畑 実、私には彼の心境が分るような気がする。
彼は濁音がうまく発音出来なかった。カワグチさんはカワクチさんになった。だが一生懸命私に語りかけてくる時の小畑さんに私はフルに愛情をこめて対話した。
今シドニ−のオリンピックでは、南北に分れた人たちが望んでやまなかった統一の形が実現した。そのことを今は遠い遠い昔になった思い出の中の小畑 実さんに話かけようと思う。
「しばし別れの夜汽車の窓に
いわず語らずに心と心」
小畑さんの高原の歌声が私の耳に響いている。