二つの美術展(1)

岡本太郎と草間弥生

 私は今、鹿児島県霧島にある「霧島ア−トの森」という美術館の館長をやっている。3年前に鹿児島県から県の文化部次長という長谷敏子さんが見えた。NHK会長をやめて、のんきな状態にあった私は、一瞬「オヤ県から何が?」と思った。

「実は今度、県で鹿児島の霧島に野外美術館を作ることになりまして、、、、、ついてはその館長に、、、」びっくりした。

 N響の時は音楽に対する知識も実績も殆どなかったが「やってみよう!」と踏み切った。1986年、昭和61年のことである。

 その時の私は、NHKの放送総局長をやめたばかり、テレビ草創期から音楽番組を担当した私は少しはクラシックの分野にもなじみがあった。N響のメンバ−にも何人か知り合いが出来ていた。「N響のことぐらいは何とか出きるだろう」という気持と「このむつかしい時代だからN響も思い切って脱皮をしなくては、、、、、」などと、少々口はばったい、いささかの抱負をにじませて、私は理事長になた。むつかしい仕事だったが楽しみもあった。相手は世界に冠たるオ−ケストラ−、皆それなりに高いプライドを持っていた。そのプライドを大事にしながら、現実の不況時代をどう乗り切るか、色んなことを考えた。

 指揮者も、色んな人をよんだ。思い切ったプログラム編成もやった。NHKホ−ル以外にサントリ−ホ−ルでも、定期演奏会をやった。多少踏み込んで、楽員の処遇改善もした。有能な指揮者の招聘もやった。

 それが軌道に乗り始めた頃、NHKに変事が起った。島会長辞任である。

 曲折の末、何と私にNHK会長という大役が回ってきた。大変なことだった。もうダメか、とも思った。時代は極めて難しい時代だった。何とか任期の6年は全うした。だがその代りに、私は、健康だった妻をガンで失ない、私じたいも前立腺ガンにかかった。この頃発明されたリュ−プリンという新薬でなんとかガンを制した。その代りに私は薬の後遺症にかかった。骨粗そう症だ。全身がだるくなった。物忘れもひどくなった。遂には2001年の秋、旅先で骨折してしまった。

「霧島ア−トの森」の話はその前のことだった。新しい館の立ち上げに、私は自信がなかった。県庁に用事があって出かけた時、須賀知事に、お目にかかった。

「私は音楽のことは多少知ってます。でも美術のことは何も知りません。美術館なんて全く自信がありません。辞退します」

 桜島を目の前に見る知事室で須賀さんはこういった。

「川口さん、私どもはあなたが音楽専門家と知っています。でも美術の方のことは何もご存知ないことも知っています。でもいいんです。私たち県のものが期待するのは、NHKというユニ−クな団体をひぱってこられたあなたの実績です。特に多くの日本人が今どういうことをねがっているか、をよく知っていらっしゃることです」

 これには参った。

「分かりました。一生懸命やってみます」そう答えざるを得なかった。

 実際、霧島山麓にかこまれた山の中の美術館はすてきだった。2000年秋、専門家数人を含めて20人足らずの人数でスタ−トした。皆を集めて「ここの魅力の第一は、やはり山です。そして植物と動物たちです。その山の中のあちこちにたのしい彫刻の森を作りましょう。ガラスばりの特設館では、いくつかの魅力的な作家の作品を集めましょう」私自身も広い敷地(館内は16ヘクタ−ルもある)にねころんで、雲を見ていた。時には美術館のカベをバックにコ−ラスをやったりした。

 ことしの第一のうり物に考えたのは岡本太郎展だった。7月から8月の2ヵ月何と2万人の人たちが見て下さった。

 9月からは、水玉模様で有名な草間弥生展である。これ又、沢山の人がきてくれている。

 こちらも、2ヵ月で2万人を越すことは間違いない。

 鹿児島県の試算では年間の入場見込みには当初5万人だった。だが第一年から20万人入った。

 ことし第二年目の集計は20万は勿論、かるがると越えそうだ。

 岡本太郎展では、岡本敏子さんがお話をして下さった。

 敏子さんは、東京女子大在学中から岡本さんの秘書をつとめ、のち、養女として入籍されている。

 この方の太郎さんについての話、太郎の芸術についての話は極めて面白かった。

 あとを受けて草間弥生展である。この開会式は9月6日だった。ユニ−クな式典となった。

 開会式の時は、入口のコブシの並木に水玉の模様を巻いた。コブシの木々はうれしそうだった。

 そのコブシの並木を草間さんは自らも、水玉模様の衣をまとって会場に入ってきた。大喝采だった。その後一ヵ月、草間弥生展も、又2万人には確実に人が集りそうだ。

 自然の中の極めて生き生きと生きる「自然人」の展覧会−それこそが「ア−トの森」の魅力だ。