小野田 勇

 2000年11月6日、吉祥寺の前進座に行く。藤沢から2時間かけて、やっと開幕に間に合った。

 前進座の若きスタ−、中村梅雀が大石内蔵助をやる、というので、殆ど何の知識をなくて飛んで行ったのである。

 ベルの鳴り渡る中をあわてて入ると客席は超満員である。ホッとして一幕を見る。「ウム、いい脚本だな」というのが第一印象。座付の作者の脚本だと思っていたので、「ここの作者もうまくなったなア」と感心して一幕を見終る。勿論若き日の内蔵助を演ずる梅雀はとてもいい。

 幕間になって明るくなったので、プログラムを見る。何と原作 池波正太郎、脚色 小野田 勇とあるではないか!!

「ウ−ン、さすがだ!!」しばらく私は唸っていた。見事な筋立て、見事なセリフ、である。

 全幕が3時間余りで終って、吉祥寺までテクテク歩きながら、あの小野田 勇さんの温顔を思い起していた。

 私が小野田さんに初めて会ったのは、連続ドラマ「おはなはん」を執筆しておられる頃であった。昭和40年頃のことだ。

 勿論こちらは音楽部のデレクタ−であったから仕事の話ではない。「音楽部の川口です」と挨拶する私に小野田さんはたいそうてれて「イヤ、、、どうも、、、、、」とかいいながら、ちっともまともな会話をしてくれない。

 同僚の古賀龍二君が二人とも麻雀好きだから一度、やったら、、、などと仲をとりもってくれた。

 小野田さんの遅筆は有名だった。担当のCP(チ−フプロデユ−サ−)は小野田さんの原稿をとるのにきまってノイロ−ゼになる、という話がまことしやかに語られていた。そんな苦労をしても「小野チャンのは、出来てみるといいんだからなア」というのが定評だった。

「おはなはん」は大ヒットした。テレビ史上でも珍しいぐらいの大ヒットだった。その裏に310回にわたる大量の原稿をセッセと、書き続けた小野田さんの力が大きくあずかっていた。遅筆に泣かされながらでも、とってきた原稿は殆どそのまま、すばらしいテレビドラマの名場面になって行った。

 後年(昭和46年)私がドラマ部長になった時、前述の古賀君も又ドラマのCPになっていた。古賀君から柴田練三郎の原作を小野田さんに脚色してもらって、、、、、という企画が上がってきた。徳川八代将軍吉宗の若き日を、天一坊事件や赤穂浪士の事件をないまぜにして破天荒な娯楽的時代劇を作りたい!というのだ。

 私は大賛成だった。

 無名に近い浜畑賢吉を主人公にして、まことに面白い時代劇が出来た。毎週金曜日の八時からの一時間ドラマだったが、「「男は度胸」を見るために金曜は早く家へ帰る」というサラリ−マンがぐんとふえた、といわれた。

 小野田 勇さんは破天荒な人物を登場させ思いもかけぬ筋を展開する。アレヨアレヨ、といううちに観客は(視聴者も)すっかり小野田ドラマにひきずりこまれている。しかし小野田さんの脚本は決していい加減ではない。人物の描写、筋立てのうまさ、そして最大の魅力はセリフである。

 こんどの前進座の「大石内蔵助」でも正にその小野田ドラマが最大限に発揮されていた。従って、そのセリフを魅力的にしゃべる梅雀は又見事に小野田脚本のよさを表現していた。

 そういう名脚本家、小野田 勇さんにもどうにもならぬウイ−クポイントがあった、「遅筆」の二字である。本が遅い、舞台の脚本を頼んだ新派が、初日の朝やっと最終稿が間に合って、その日半日ケイコをして夜、初日をあけた、ということもあった。

 小野田さんはよく高校野球を見た。甲子園が始まるとソワソワした。神宮の東、東京の予選から見るのだ。その分原稿が遅れる。でも出来てきたら、皆が大よろこびをするのである。鬼才だった、といえよう。

 久しぶりに小野田さんの面影が目に浮かんだ。小野田さん、今は〆切りの束縛もなくて、のんびりされているのだろうか。

「川さん、早くおいでよ、麻雀やろうよ」といっていそうな気もする。