若い人たちに敬愛された山の詩人=尾崎喜八

北鎌倉の浄智寺前に昔ながらの円筒形のポストがある。晩年の尾崎喜八は散歩がてら、アジサイで有名な明月院の裏の谷戸から降りて、手紙をこのポストに投函しに来たものだった。この明月谷にト居したのは、1966年12月で、それまで14年間住んでいた東京世田区上野毛の淡えん草舎が幹線道路拡張により、転居を余儀なくされたがためであった。この地を去るにあたって、東京新聞は尾崎喜八が樹木に囲まれた自然の中に、野鳥を聞きながら、質素な家での生活ぶりを写真入りで掲載した。東京の郊外とは言え、まだこの様な原野が残されていたかと思わせるような幽邃なところに「山の詩人」はいた。思索に耽り、音楽を愛し、詩を書きながら清貧の生活であった。

鎌倉に転居した後、詩集「田舎のモ−ツアルト」(1966年)、散文集「私の衆賛歌」(1967年)、散文集「夕べの旋律」(1969年)、詩集「その空の下で」(1970年)を刊行。その間1968年から5年間に亙って「芸術新潮」に「音楽と求道」を連載する。「素顔の鎌倉」(共著、1971年)、散文集「晩き木の実」(1972年)、散文集「音楽への愛と感謝」(1973年)、「ヘルマン ヘッセとワンデルグ」が絶筆。死の直前まで芸術に対する意欲はいささかも衰えなかった。そして1974年に他界するまでの8年間、自然と共に、詩と音楽を愛する人々に囲まれながら幸福な生涯を終えた

尾崎喜八は1892年東京京橋の回漕問屋の長男として生まれる。生まれてまもなく母親が離縁。当時の風習として厄年の子故里親に預けられる。4歳の時、実家にもどされるが、里親をしきりに恋しがる。

小学校を首席で通す。早熟でその頃から読書と自然に親しみを覚える。19歳の時「文章世界」と「スバル」で高村光太郎の名を知る。その反逆精神に魅せられて光太郎のアトリエを訪問、その頃ロマンロ−ランの「トルストイ伝」に感激し、引き続きロ−ランの「ジャンクリストフ」に狂喜する。

尾崎喜八が高村光太郎の知遇を得たことは、その後の芸術活動において公私に亙って大きな影響を受ける。「白樺」の同人やその傍系の詩人、歌人、画家と知己になったのも高村光太郎を通じてであった。尾崎喜八は詩を書くと光太郎に見せたが、「いいですね。もっとお書きなさい」と言うだけで励ますだけで、決してそれ以上の批評はしなかった。

。23歳の時秘密にしていた恋愛が発覚し、結婚も文学も断念するよう父親から強制されるが、尾崎喜八は受け入れず、廃嫡の身となる。その時「白樺」派の長与善郎の家に寄宿する。この頃「白樺」に連載していたロマンロ−ランの音楽評論集「近代音楽家評伝」を処女出版する。尾崎喜八24歳の時である。

第一次世界大戦が終結した1918年にフランス人からフランス語を学ぶ。天文学に興味を持つようになった。1919年、27歳の時に恋人がスペイン風邪で急死する。それまで勤務していた会社を退職して、荒涼とした日々をおくるようになった。「白樺」に戯曲風の作品「或る女の死」を書く。

その後母校京華商業の紹介で京城の朝鮮銀行に勤務する。だが早くも翌年には勤務先の行風に馴染むことが出来ずに、病気を理由に退社する。帰国後は本郷に居を移し、高村光太郎との交流が頻繁になった。光太郎の推薦でベルリオ−ズの「自伝と書簡」を出版し本格的に詩作活動にはいる。

1921年に大正詩壇に詩人の総合的団体の雑誌「詩聖」に参加し毎号詩を発表する。この雑誌を通じて大藤治郎、野口米次郎、田中冬二、中野秀人、高田博厚らと交わる。水野葉舟の近くの戸越公園付近に転居。

1922年に処女詩集「空と樹木」を上梓し高村光太郎と千家元麿に献じ、ロマンロ−ランに贈る。ロ−ランから返書を受け取る。

1923年の関東大震災で数里離れた実家に駆けつけ、父母を助け家財を運ぶ。これを機に父親と和解する。1924年かねてから交際していた水野葉舟の長女、実子と結婚する。上高井戸に移住して、畑を耕し花を栽培したり、鶏を飼育して、文学に打ち込む。「一行たりとも書かざる日はなし」との生活だった。光太郎を通じて草野心平を知るのもこの頃である。魂の平和と心の善良とかつ精神の自由を通して、自らそれと確信するこの世の美を表現するにあるとして、「高層雲の下」を刊行。

1925年片山敏彦によってヘッセの詩業を知りドイツ語の独習を始める。元来語学の才能があるので、短期間で簡単な詩は理解できるようになる。

1926年ロ−ランの友情の使節として、シャルルヴイルドラック夫妻の訪問を受ける。デュアメル、マルテイネ等のフランスの文人との交際の輪が広がる。

1928年前年の父親の死去に伴い、京橋の実家に転居し家督相続をする。下高井戸時代の交友関係に代わって、アナ−キストや無頼派的詩人の交流が盛んになる。自然への傾倒が一層深くなり、自然地理学や気象学の勉強を始める。詩作の上で一つの壁にぶつかり、茅野蕭々訳「リルケ詩集」により新しい美に大きな影響を受ける。

1931年荻窪に移り、自然観察、植物昆虫の標本に熱中する。山は高原の旅が多くなる。1933年に詩集「旅と滞在」1935年に散文集「山の絵本」によって独自の文学的ジャンルを切り開き、多くの読者を獲得するにいたる。

1939年、ドイツ語を独習して10余年ヘルマン ヘッセの「ワンデンルグ」の翻訳を出版。この年に第二次世界大戦勃発。1945年の終戦までの間訳詩、詩集、散文集を刊行。

1945年5月東京青山の自宅が空襲に会い、全焼。千葉縣、東京と親類、知人宅を転々とする。その間に病を得、母親が死去。どこか遠く純粋な自然に囲まれた土地へのあこがれがいよいよ募った。1945年9月に長野県諏訪郡富士見村にある元伯爵渡辺 昭の別荘の一部を借りて、焼け残った大事な本とわずかな家財道具をもって移り住む。

ここ分水荘の以後7年間は尾崎喜八の精神的、肉体的、経済的にも最も苦しい時代であった。だがまた一方で初めての土地で、若い向学心に燃えた男女が、分水荘に集まり、農村の人々との交流により孤独の生活を慰められた。昼は農業に従事し、夜間には村の青年と文学や自然を語ったり、句会を開いたりして富士見に溶け込んだ。それまで交流のあった作家や詩人とは違って、未来の希望を持った若人達から、得ることもすくなかった。戦中から戦後にかけて都会の文化人が農村に移住し、知的な活動をして土地の人々から敬愛された例の一つである。当時を回顧して皆一様に尾崎喜八に敬慕して止まない。老いても喜八のなかに永遠の文学青年の精神が宿っていた。

高村光太郎が戦後岩手県花巻町に移って、戦時中の行動を反省した7年間と同じように、尾崎喜八も7年間富士見の寒村に逼塞の日々を送った。長女尾崎栄子は当時の暮らしぶりについて次のような思い出を記している。

「鴨居から天井まで一間もある14畳の部屋に小さな切炬燵一つと火鉢一つで暮らしていたのです。今から考えるとどうしてしのいでいたかと思われる程の収入しかなかったので、スト−ブ(薪)なども6年目の冬まではとりつけることも出来ず、御風呂もドラム缶改造の野天風呂、炊事の煮炊きも流しも屋根の下の吹き晒しのところでしていたのです」

この自己を凝視し自己に誠実に、自然の摂理を深く観照して強靭な意志を持って、清貧の中から尾崎喜八の詩集「花咲ける孤独」が生まれた。「麦刈りの月」、「高原歴月」、「美しき視野」「碧い遠方」などを書き、この期間に詩、散文の頂点を示す仕事をしている。

1952年に東京世田谷区上野毛に転居。デユアメル「わが庭の寓話」を訳す。

1953年には串田孫一郎を中心とする「アルプ」の創刊に参加する。アルプの書名は尾崎喜八の命名。1962年の古希には1958年から刊行された「尾崎詩文集9巻が出された。死後1975年に全10巻が刊行。

1973年8月に吐血し救急車で運ばれ、鎌倉額田病院に入院。一時は奇跡的に回復したが、翌年2月に死去。享年82歳。

1977年の三回忌に明月院に墓碑が建立された。石碑は有志の人々によって富士見から運ばれてきた。その碑文「いたるところに歌があった、いくたのやさしいまなざしがあり、いくつの高貴な心があった。こうして富まされた晩年を 在りし日への愛と感謝と郷愁で 装うことのできる魂は幸いだ」

1980年に「6年の春秋は夢の如けん。しかれども吾にあってこれ正に半生」と尾崎喜八を言わしめた富士見の地に、「富士見に生きて」記念碑が建立された。