酒縁で発行された雑誌の話

 雑誌の発行は、どの種類のものであれ続けることは極めて難しいことは、昔も今も変わらない。創刊号だけで廃刊になったり、三号で続かなくなって所謂三号雑誌で姿を消してしまった雑誌は、無数にある。だが短期間でも文学史上に残る優れた作品も少なくない。雑誌の長短だけで云々することは出来ないかもしれないのは言うまでもない。

 かって「酒」という一種の趣味の雑誌があった。この雑誌は女性の編集長の佐々木久子が、孤軍奮闘しながら、500号余りを出して平成9年に休刊になったが、あくまで佐々木久子という編集者の手腕によるところ大と言わなければならない。何事でも最初は誰でもズブの素人であるように、広島から単身上京した佐々木久子も雑誌の編集にはまったくの門外漢であった。今でこそ女性の編集者や編集長はそれ程珍しくないが、当時は数少なかった。それに雑誌そのものが現在のように多くはなかった。

 昭和30年に4月に発刊された雑誌「酒」の編集者に採用された佐々木久子は、土、日は勿論のこと祭日も返上して、仕事に没頭して雑誌の作りの基礎に励んだ。それは一つには雑誌の作りが性格的に合っていて楽しかったこともあろう。だが肝腎の雑誌は一向に売れなかった。

 佐々木久子は、「お酒は飲んで酔えばそれだけで心楽しいもので、活字にして読んでもらおうというのだから、まことに図々しいはなしだ」と雑誌を商業ベ−スに乗せることの困難さを認めていた。

 発刊11ヶ月で莫大な赤字を出して廃刊に追い込まれた。その時火野葦平という救世主が現れ、「葦平命のある限り、雑誌「酒」にタダで原稿書いてやる、、、、」と言った文面の証文を書いてくれた。これは飲み屋での座興の積もりだったかもしれないが、火野葦平が自害するまで、原稿と扉を書き続けた。そればかりでなく文壇の作家達を紹介してくれた。そして葦平に言われたので、酒だけの原稿料で執筆してくれる執筆者もいた。

 火野葦平がこの世を去ってからは、雑誌はつぶれるだろうとの噂をよそに、佐々木久子は意地でも続けようと背水の陣をしき、立ち向った。こうして度胸が坐ったら全くこわいものはなくなった。その支えになったのは、権力に反抗する酒を愛する庶民達の力であった。所謂独力で逞しく生き抜く勇気を彼等から与えられた。

 酒にまつわることから、酒と切っても切り離せない坂口安吾の未亡人、坂口三千代の「クラクラ日記」は、「酒」に11年に亙って連載されたのをまとめたものである。

平成16年2月17日は安吾忌の50回にあたり、安吾の郷里新潟や東京など3ケ所で偲ぶ会が行なわれた。