児童福祉の先駆的役割−佐竹音次郎

 鎌倉駅裏口の鎌倉市役所に隣接している御成トンネルを潜ると、左手に真新しい3階建ての建物がある。その門扉に「児童養護施設 鎌倉児童ホ−ム」のプレ−トが掲げられている。

門を入って右手に佐竹音次郎夫妻の胸像と辞世の句が刻されている一基の石碑が建立されている。

「われ死なば死骸は松の根にうめよわがたましひの松のこやしに」

 ここは佐竹音次郎が45年に亙る児童保育院の発祥の地であると共に、77年に及ぶ苦闘の生涯の終焉の地でもある。この地に移る10年ほど以前、明治29年に鎌倉腰越に腰越医院と小児保育院を併設し、地区の医療と児童の福祉を開始した。時に佐竹音次郎30歳。

 佐竹音次郎は元治元年(1864)高知県幡多郡下田村竹島に生まれた。上京して東京の巣鴨尋常高等小学校の校長を務めた後、医学予備校済世学舎に入学。卒業後、山梨県立病院を1年足らずで辞め、鎌倉腰越に病院を開業した。明治27年、30歳の時である。

 翌明治28年音次郎は、郷里土佐の下田から21歳の沖本くまを迎えたが、楽しい夢を懐いて上京した新妻を厳しく昼となく夜となく教育した。

 当時の腰越は漁村で、音次郎は医者の立場から家庭内に出入りし、悲惨な生活を数多く目にしてきた。色々な事情から家庭を離れて里子に出される子どもも多かった。

 ある時、名家の未亡人が訪れた。それまで未亡人は娘一人を頼りに生きてきた。診察の結果、その未亡人は結核が進行していたので別居生活を勧めた。しかし親戚の誰一人として娘を引取って面倒見てくれる者とてなかった。

 又東京の某資産家の息子が家の家政婦と恋に陥り、妊娠させてしまったが、両親が二人の結婚を許さなかった。そこで困り果てしまい、腰越に奇特な医師がいることを聞きつけて、東京から相談にやって来た。

 こうしたことから、子どもの養育も分娩も音次郎の仕事になったのである。

 その頃の孤児院は5歳以上を養育していたのであるが、佐竹はそれ以下の乳児、幼児を預かることにした。そして収容した子ども達は自分の子どもと分け隔てなく同じように養育することを決意した。それまで一般に使用されていた「孤児院」の名称を廃して、「小児保育院」と命名したのはそういう博愛に由来する。おそらく「保育」という言葉が使用されたのもここが最初であろう。

 音次郎が、子どもに対して同情を持つた動機は、その生い立ちに関係する。音次郎は、7歳の時親戚の家に里子にだされた。だが3年後には、養家の夫婦仲が悪くなり、離婚になったのを機に生家に戻って来た。

 生来体が虚弱であったがために、他の兄弟のように百姓に向いていなかった。そこで勉強して学問の道に進もうとしたが、百姓に学問はいらぬと言って親の理解は得られなかった。肉親すら現在の自分を真に理解してくれないということは、寂しいものであった。この幼児体験は、彼をして他日自分と同様の悩みを経験する者のため、よき理解者たらんとすること、不遇に泣く子によき相談相手にならんと決心させたのである。

 保育院も2年めに入った時、親友の田辺氏の紹介で事業の賛助員を委嘱して歩いた。

 丁度そのころ長女里子が誕生した。音次郎は「他人の子を我が子のごとくに生みの子との間に隔てのない文字通り一視同仁の養育を目指す。これを自ら「聖愛主義」と名づけた。

 子どもの数も7、8人と増えていくにつれて、これまで以上に働かなければならなかった。又外部よりの援助も一層必要になった。だがこれ以上他人の援助を受けることが心苦しく感じられて、20人の賛助員の援助を断った。

 その代りに「保育散」という歯磨き粉を考案し自立を計った。その頃目の前の江ノ島に病人や怪我人がでると往診に出掛けたり、辻堂に出張所を設けて出向いたりした。そうした折りに「保育散」の販売に努力したが、宣伝費もないことから思ったほどさばけなかった。

 明治33年の1月一寸した風邪が原因で肺炎になり、肋膜炎、肺せんカタルを併発楽観できない状態に陥った。

 音次郎は死に直面した今自分の歩んで来た37年の生涯を回顧し、峻厳に自己検討を始めた。

 その結果は、自分のこれまでの生涯に何ひとつとして満足なものを見出しえなかったことに気づいた。たまたま見出したものは醜い高慢な心だけに過ぎない。「誠」とか「良心」とかを盾にとって、この良心の声に従って善事をなしているという傲慢心に捕らわれていることを知った。

 音次郎の心は今や神の前に全く打ち砕かれた。幸いなるかなこの瞬間、はっきりと自分のいく手に光明を見出すことが出来た。そして変化は恐ろしい勢いでその肉体にまで及んでいき、彼自身はもとより周囲の者にも絶望視されていた肉体が見る見る回復に向った。2年後重病から起き上がれるまでになり、彼は神と自身に誓いを立てた。

「再び医業に従事できるようになったら、全身全霊で育児事業に邁進しよう。もし一日に五人の患者を得たならは、五人の孤児を、十人の患者を与えられたら、十人の子どもを引き受けよう」と決心した。

 その頃鎌倉にいた宣教師のピ−タ−女史を訪問して教えをこうた。女史は「聖書をお読みなさい。そしてお祈りをなさい」ただそれだけであった。

 音次郎はピ−タ−ソン女史の紹介で津田 仙に従い、信仰の道に励むようになり、七里ガ浜づたいに2里の道を歩いて鎌倉福音館の牧師山鹿旗之進の指導を受けた。そして明治35年6月16日に妻の熊子も音次郎と共に洗礼を受けた。

 山鹿旗之進は後年「我が国の社会事業に卓越せる地歩を占めたこの事業の陰にひそむ夫人の尊い犠牲を見落としてならない」と熊子を称えた。

 病気を転機として音次郎の新生活が始まった。それは転職の真意が明確になったことであった。今や音次郎の事業ではなく神の聖業であるとの観念が明確にされてきたのである。

 十数人の家族の生活が音次郎一人の双肩にかかっていることは財政的困難に直面せざるを得なくなった。そのうち大事な診療室まで明け渡さなければならなくなった。そうした窮状を見かねて、材木を寄付する知人が現れた。だが資材だけで家屋が建つわけもなく、資金を確保しなければならない。そこで病気静養中に執筆した「結核征伐」の出版を思い立った。

 音次郎の母校である済世学舎の岡本武次先生(鎌倉病院創設者)の紹介でこの本は世に出た。一冊25銭、一日に20冊を売り捌くことを目標に上京して売り歩いたが結果は思わしくなかった。

 そんな時である。津田 仙の紹介で内村鑑三を訪ねた。その夜、偶々理想団の晩餐会があり、それに出席して佐竹音次郎は、自己の日頃の抱負を語る機会を得た。彼は勿論大勢の面前で演説をするのは初めてであるが自己の信念を訥々と訴えた。そしてその聴衆の中に音次郎の熱意に感激した堺利彦がいた。

 堺利彦は「万朝報」の紙上にその実状を掲載した。その記事を読んで感激のあまり、明治学院の学生益富政助は、腰越に音次郎を訪問した。そしてこの3人の友情は以後30年に及んだ。

 時あたかも足尾銅山の公害に悩む農民達を救うために、一身を投げ打った田中正造が、明治天皇に直訴に及んだ頃であった。この精神的環境が音次郎に与えた影響は少なくない。

 保育院創設10周年の明治38年は、日清戦争の戦勝で巷は沸き返っていた。一方で水疱瘡、百日咳、麻疹と恐ろしい伝染病が蔓延していた。この時、二人の子ども(東京女囚携帯乳児保育会から乳児を委託されていた子どもと音次郎夫妻の4女愛子)を犠牲にしてしまった。

 音次郎は我が子の死を機に次のような決意をした「こうした小さい医院の中で大勢の子どもを育てようというのがそもそも間違っていたのだ。二度と子どもたちを病魔の餌食にしては申し訳ない」

 こうして保育院移転に自然環境のいい鎌倉佐助ヶ谷の地が選ばれた。当時は南に由比ガ浜が開かれ、三方は丘陵で囲繞されている辺ぴな場所であった。

 坪数500坪。おもいがけぬひとからの寄付によって買収することが出来た。また腰越在住の子爵秋月古香から書画を寄贈され、子爵の紹介で曽我子爵の知遇を得た。

 曽我子爵の名刺を持参して、伊藤博文、山形有朋、板垣退助等の政界のみならず書家、画家の揮毫を受けた。こうして集った名品2万点。これらを音次郎は頒布会を通じて資金集めに努めて、平塚の在から庄屋と宿屋を買取り、佐助の地に移築した。明治39530日のことである。小児保育院は鎌倉保育園と改称され、新たなる門出となった。

 元来、鎌倉は極楽寺を中心に忍性上人が、敬田院、悲田院、療病院、施薬院を建て、20年間に5万人の患者を収容した記録がある。又「駆け込み寺」として知られる東慶寺などがあり、古くから社会事業の歴史をもつ土地柄であった。

 鎌倉に移った音次郎は、これまでの生業であった医師を廃業して、財団法人にして賛助員募集に取掛かった。一旦事に着手すると他を顧みない猪突猛進的なところがあった音次郎は、妻との折り合いも上手くいかず、信仰と行動のジレンマに陥ったのもこの頃であった。

「神様!特別のご保護によって、この仕事を継続することを許し、改めて園父に使命を下し給え。私共もここに新しく献身を誓います」

 これまでは「自分の事業」であったものが「神の事業」だという信念に変ったことで新しい光がさして来た。音次郎は子どもにたいする教育について学問を重んじたが学問は所詮知識をますだけのもので人間を作る力はない。真に人間らしい人間を作るには精神教育によらねばならないという信念を持っていた。

 音次郎夫妻には6歳で早世した献太郎の他に、里子、伸子、花子の3人の娘がいたが、「他人と我が子を区別しないで育てる」という方針で育てられたので、早くから音次郎の理想に協力的であった。そしてこの三人の娘が、父親の福祉事業になくてはならない後継者となるのである。

 ここでは血縁や戸籍面に関係なく、誰でも年長者はおじさん、おばさん、兄さん、姉さんで年少者はすべて弟、妹である。いわば仲の好い大家族なのである。

 音次郎が大連の土を踏んだのは、大正元年10月のことである。済世学舎時代の親友、田辺猛雄が彼の地で医院を開業していたので、300本の書画を抱えて赴いた。そして当時の民政長官白仁武から、折角ここまで来たのであるから、旅順に行ってはどうかと勧められた。

 音次郎は霊感によって、風光明媚な旅順を海外発展の第一の地に選んだ。そして田家屯に一万坪の土地を借り受けることにした。一旦鎌倉に帰って、430日に2、3の園児をつれて旅順に来た。これが外地の最初の支部である。この荒野にいぐさやブドウを栽培した。その後、白玉山頂の表忠塔(日露戦争戦没者慰霊碑)を居ながらにして仰げる地域(大戦当時は病院)に移転した。里子夫婦が主任となって、多い時には60人程の園児が入居していた。

 旅順の支部設立は順調にスタ−トしたが、財政的には困難が続いていた。そこで音次郎は京城(ソ−ル)で書画会を開いて資金集めに奔走した。

 その時「今の時代、日本人が渡ってくるのは一攫千金を夢見てくる人間ばかりだ。その中で一人くらい純然たる博愛主義の精神から、韓国のことを思い献身犠牲の精神で働く者がいてもいいのではないか。佐竹さん、そうした使命に感じて立ち上がりませんか」と言われた。

 他人の子どもと自分の子どもと区別をつけないなら、他の民族の子どももまた我が子のごとく育てられる筈であると音次郎は考え、これこそ神の声と信じた。

 こうと決まるとすぐに実行に移すのが音次郎の性格である。三角地の一隅に家を借りうけた。そのために山形五十雄を始め書画会で結ばれた人々が協力してくれた。ここでの最初の困難は言葉の不通であった。ここの若い主任はバリカンを持って付近の村に出掛け、片言の韓国語で散髪してやった。そして韓国の子どもだけを集めることにした。ここに来る子は孤児ではなく、捨て子と迷子であった。近くに連隊があったので余剰食物をもらいうけてきて食料とした。

 大正6年6月に音次郎が訪れた時、22人の韓国の子ども達は日本語を巧みに話し、讃美歌を歌うのを聞いた。だが一方で鎌倉本部の実状は逼迫していることに変りはなかった。

 長い間借用していた土地、建物が昭和14年7月の総督府から無償譲与を受けた。

 これより先大正31月、音次郎は15歳の三女花子を伴って、突然台湾を訪れた。旅順とソ−ルの二ヶ所に支部を設けたが、精神的にも財政的にも悩みは尽きなかった。このままでは倒れてしまうと思って、思い切って活路を台湾に求めたのである。200点の書画を携え、悲愴な決意での南の島への出発であった。台北には済世学舎時代の友人の相沢のもとに旅の草鞋を脱いだ。

 慣れぬ風土と気候と戦いながら、目にしたものは子どもを育てられない親が子どもを里子にだす現状であった。花子は「お父様台湾にも支部をつくってくださらない。私はここの子どもたちのために一生懸命に働きますわ。ねえ、お父様、、、」だが周囲の声は厳しかった。

「そんなに一度に手を広げたってやっていかれる筈ないじゃありませんか。無鉄砲にもほどがある!」

だが15歳の娘の希望に音次郎の魂は揺す振られた。そしてこの時ほど各地を歩き、書画会を催し祝福されたことはなかった。こうして大正41210日、「鎌倉保育園台北支部」が台北八甲町に設立された。「愛育幼稚園」の看板は台湾人にとって最初の小児保育の施設である。当初は文化の違いで戸惑うことも多々あった。

 大正9年1月には音次郎は保育園を神のものとして財団法人に改めた。その結果25年間血と汗の結晶として手にした10万円の財産は彼自身の所有でなくしたのである。

 大正129月1日の関東大震災は鎌倉にも甚大な被害をもたらした。鎌倉保育園も完全に倒壊してしまった。二人の犠牲者を出したが、園児たち70人の家族には被害は及ばなかった。

 この二人とは、腰越医院が鎌倉に移転した後に後を継いだ熊子夫人の姉の沖本幸子と養子である。

 創立25周年にしてどうやら一息つけると喜んだのも束の間、音次郎は凡てを失い、又一から出直さなければならなかった。保育園は罹災後8日で倒壊の隔離室を修理して野宿の子どもたちを収容することが出来た。70人の家族を擁してのスタ−トは重荷であった。それにこの夏は、健康がすぐれず絶対安静を医師から命じられていた。

 こうした安静している時に慰めてくれたのが、保育園の周囲に植えられている庭木であった。一本一本丹精を込めて世話を怠らなかった思い出深い木々であった。

 さらにもう一つの楽しみは明治29年からの40年におよぶ日誌をつけることであった。血みどろの歩ん来た道と音次郎の社会事業に協力してくれた人々の芳名が凡て記録されている。壮観である。

 ここで一人の老人のことに触れたい。保育園の宝物爺さんと呼ばれていた仙葉老人。この老人は天涯孤独の寺男であったが、腰越時代に音次郎のところに身を寄せたのが機縁で、或る時は子守りをしたり、台所の手伝いをして鎌倉に移転してからは会計を受け持ち、96年の生涯を終えた。元来身寄りがなかったけれども、賑やかな子どもたちの声を聞きながら、長年住み慣れた園で、馴染み深い人々に親切に見取られて逝ったことは幸福であった。

 佐竹音次郎は。神の恵みが甚大だと泣き、子どもがやさしくしてくれるからと言っては泣け、最後までこころ優しい人であった。佐竹音次郎は昭和15年8月16日に77歳で死去した。児童福祉のために、苦難と困憊の血みどろの戦いに終始した生涯であった。音次郎の霊は今は鎌倉霊園に静かに眠っている。