思い出す新劇人

 文学座のことを書いたので、この辺で私の印象に残っている新劇人のことを書いておきたい。

 文学座とくれば、やはり俳優座のことを書かねばなるまい。文学座の杉村さんに匹敵する俳優座の代表は、やはり千田是也さんだろう。この人はしかし私にはとんと縁がなかった。

 演出家、俳優、そして座の経営者−芸術家にして理論家、千田さんは私にとっては余りに近より難い存在だった。

 面と向ってお話したことも殆んどない。「NHKです。いつもお世話になってます。どうぞよろしく!」そんな紋切型の挨拶しかしなかった覚えがある。この人の持っている雰囲気がどうも合わなかったのだろう。

 俳優座ではむしろ、東山千栄子、岸 輝子(千田さんの奥さんだ)、山岡久乃、楠田 薫、菅井きん、などという女優さんたちに大いに親しみを感じた。この中で山岡久乃さんと、菅井きんさんはたしか、私と同い年である。

 菅井さんは、12年にわたり私と「映画テレビプロデユ−サ−協会」の副会長として助けて下さった劇団「仕事」(俳優座のテレビ映画関係の仕事を担当していた)の代表、佐藤正人さんの奥さんであったから、思い出が深い。

 佐藤さんは、驚異的な巨人フアンとしても有名だった。プロデユ−サ−協会の役員会(月1回だった)をやっていても、いつもレシ−バ−を耳にあてていた。大変なタバコ好きで殆んど口からタバコが消えたことがない。

「巨人とタバコで生きている人」と私は命名したのだが、感心するのは、ちゃんと会議の中身でも細かい意見をいわれて、その上に巨人戦の経過がチャンと乗っていたことだ。

 年下の人たちからも「マ−ちゃん」と慕われていた。まことに素適な存在だった。残念ながら病を得てなくなられた。中野宝仙寺でのご葬儀で、弔辞を読みながら私は何度もつかえた。

 俳優座から、この「仕事」に入っていた人の代表は「モヤ」という仇名の仲代達矢である。この人とはNHKが大河ドラマ「新平家物語」をやった時、清盛役で出てもらってからのおつき合いだが、自分で無名塾というグル−プを創設して、ここから数々のスタ−を輩出している。無名塾の大成功は勿論仲代さんの力であるが、それを助けてこられた仲代夫人、宮崎恭子さんを忘れてはいけない。

 こちらは、隆巴(りゅうともえ)という名で脚本も書かれたが、宮崎さんの細かい配慮と指導で無名塾の若手がどんなに大きく成長したことか。

 平成6年に私は妻を失なったが、その日から長くも経たない7年に宮崎さんも又ガンでなくなられた。無名塾の稽古場での葬儀に行ったが悲しみに耐えて仲代さんが黙ったまま、真すぐ前を見ていた表情が忘れられない。

(2)

 新劇人のことをいうなら次はどうしても民芸だ。民衆芸術劇場だから「民芸」というのだが、どうも私には、例の酒場「みんげい」のイメ−ジもあって芝居人のつどい「みんげい」を思われてならない。

 ここは勿論、瀧沢 修、宇野重吉のご両所だが、瀧沢さんの「炎の人ゴッホ」や「セ−ルスマンの死」ウイリ−ロ−マンや格調高い舞台が忘れられないが、そのそばに全くキャラクタ−の違う宇野重吉の存在があった。

 宇野さんはガンにかかられてから全国巡演の旅に出られた。その鬼気迫る舞台をVTRで拝見して胸があつくなった。日に日にホホがこけ体の動きが不自由になってゆくのがビデオに記録されてゆく。あれはまことに壮烈な死であった。

 その宇野さんを助けて、民芸の中心になったのが、米倉斉加年さんである。

 この人は福岡の出身である。私の亡妻小夜子が福岡高女出身なのだが、戦後「高女」は新制の「福岡中央高校」となる。米倉さんはこの中央高校在学中に同級だったテルミさんと、のちに結婚する。

 小夜子が最も信頼していた後輩がこのテルミさんである。斉加年さんとも従って親しくなったのであるが、宇野さんに逝かれて「民芸」は苦難の道を歩いている。

 素晴らしい才能とユニ−クなキャラクタ−を持った米倉斉加年さんら夫妻の健闘を祈りたい。

(3)

ぶどうの会

 新劇人のことで、どうしてもあげたいのは「ぶどうの会」である。ここの代表は何といっても、山本安英さんだ。風にもたえぬような弱々しい風情で、芯の強い女性を強烈に表現なさる。

「ぶどう会」の舞台を初めてみたのは1950年(昭和25年)10月三越劇場である。

「夕鶴」は三越の前に1948年11月毎日ホ−ルで勉強会として、又同じ毎日ホ−ルで1950年1月に発表会として上演されている。私が見たのは第3回の公演だ。

 この時の「つう」を演じた山本安英さんの演技はすごかった。24歳の私はしばし体が震えるくらいの感動を覚えた。

 つうが、山本安英。与へう(のちには与ひょうとかかれるが、この時の表記は与へうだ)が桑山正一、惣どが久米 明、運づは小沢重雄である。演出は岡倉士朗さんで装置、衣裳は伊藤喜朔である。作曲は勿論團伊玖磨、(もっともこの時はまだオペラにはなっていないからいわゆる劇伴の域を脱していなかった)そして舞台監督として下元 勉が名を連ねている。

 この時の岡倉さんは「稽古しながら思う事」として

「ぶどうの会の稽古をしていると、つい作品から受けたものをそのまま描こうとあせりがちになる。そこをぐっとためて、いかにも素朴稚拙に、一つ一つの言葉、行動を作者の書いているリズムにすなおにのりながら、その奥にひそんでいる作者の心を訪ねて、己のもの生きたものに、ゆっくりゆっくりとしていった。その方向がやっぱりよかったのだ」と書いている。

 観客の一人であった私も正に、この舞台からそのような感懐を受けていた。

 岡倉さんはまた「日本人の滑稽な姿につい吹き出してしまうがそれがコダマして返ってくると、あまりにそのみじめなくだらなさに腹立たしくなり大声で怒鳴り出そうとする顔は妙にひんまがって目に涙がたまってくる」と書いている。

 観客の一人、24歳の私も又そうであった。