2002年の新春に(2)

 日本人には宗教の観念がうすいといわれる。よくひき合いに出されるのが「日本人はクリスチャンでもないのに年末にはクリスマスを祝い、年が明けるとお宮参りをして、二礼二拍手一礼の神道流の儀式をする」というのがある。その通りだ。

 私がNHK東京で仕事を始めたのは、テレビ開始の昭和28年(1953)だが、音楽班の一員になった私は、クリスマス前後はもっぱらシャンソンをはじめ外国ものを特集した。年が明けるとガラリと日本式の番組がふえる。私が担当した中でいえば、宮内庁からの雅楽中継、スタジオでの邦楽演奏会(当時は宮城道雄さんもご健在でナマ出演していただいた)とつづき長唄、常盤津、清元を始めとして、端唄小唄もあり勿論日本舞踊は花盛りであった。

 一方ではクラシック音楽あり、タンゴ、ルンバ、サンバといった軽いポピュラ−ものあり、ジャズとくれば、まだ中村八代などが売れ始めた頃だった。見砂直昭と東京キュ−バンボ−イズ。ブル−コ−ツ、早川真平とオルケスタテイピカ東京、コンボバンドもシックスレモン、ビッグフォ−、などなど一斉に花咲いた頃である。

 ヴアラエテイとしてはトニ−谷がマンボのリズムにのって現れ忽ち一世を風靡した。

 勿論テレビ番組もそれらをとり入れて、どっと色々な番組を開発したのだが、この頃はまだヨチヨチ歩きの段階で、一応の水準に達するのは1955年(昭和35年)ぐらいからあとになるのだろう。

 紅白を終って12時すぎ帰宅、5時には家を出て6時局に集り、8時から皇居の楽部で雅楽の中継。終ると内幸町のNHKに帰り、午後3時頃からの邦楽舞踊関係の番組をやる。

 こういったスケジュ−ルは全く普通であった。

 後年私の妻がよく「テレビ屋と結婚したおかげで、私たちは母子家庭よ!」とうらめしげにいわれたりした。

 そうこうするうちに、いつの間にかテレビは全国に普及し、紅白の視聴率も昭和38年の84、1%を記録するなど巨大モンスタ−の如き存在になったのであった。

 今、紅白が50%を下回ったといって騒がれているが、あの頃はテレビが最大のメデイアであり、一家はテレビの前で一年を送り、新しい年を迎えたのだから今とは、比べようがない。

 むしろこんなに多様化した社会生活の中で50%を維持していることほど凄いことはない!というべきではないか。

 多様化と多角化は、人間が進歩する動物である限り当り前だとそうきめてかかるべきだろう。