きわめて私的な「五十年」!
ことしは1953年(昭和28年)から数えるとちょうど50年。この年にスタ−トした日本のテレビ(NHK2月1日、NTV8月30日)が50歳を迎えたわけだ。そこで「今日はテレビの誕生日」としてNHKが盛大な特番を組んだ。8月はNTVがやるだろう。
さて私である。
私はこの年に先立つ3年前昭和25年(1950年)にNHKに入った。勿論テレビは全くない。ラジオの全盛時代だった。福岡放送局放送課勤務となった私は専らラジオの担当だった。
その翌年、東京から国鉄の線路を使って「テレビ列車」なるものが来た。テレビ時代に先駆けたテレビの宣伝だった。
我々若いものが主に動員されて、福岡港にあった国鉄(今のJR)の引き込み貨物線にテレビ列車をひき入れて、(二輌連結だった)この列車の中に受像機が置かれ、それにもう一台の列車からひき出されてカメラでうつした映像がうつる。勿論VTRもフイルムもないから、すべてはナマでうつした映像ばかりだ。私たちは手分けして毎日、市民が興味をもちそうな人をひっぱってくる。
博多ニワカの芸人がいた。博多検番のキレイドコロの踊りもあった。私はその年の「ミス博多」を呼んできた。かわいいきれいな女性だった。芸はないから、アナウンサ−がインタビュ−するだけ。
それだけでも、物見高い博多の見物が訪れた。「ホウ、これがテレビたいね!」「ホラ、こげん、きれいにうつっとるばい!」
何の趣向もなかったが画が出るだけで珍しかった。(勿論、カラ−などではない。画像は525本の白黒映像だ。)
ウ−ン、さすが!これはすごい!!と皆感心した。
そのうち昭和28年2月が来た。新聞には「東京でテレビ始まる!」とあるが、福岡では依然としてラジオだけ。テレビのテの字もない。でも2月2日には、新聞のトップを飾って「テレビ放送開始」という記事と写真が出た。
今はなくなったが東京内幸町のラジオスタジオを改造してテレビスタジオが二つ出来た。開始の日はこの二つしかないスタジオを使っての記念番組だ。たしか歌舞伎の尾上松緑さんが出ての祝儀番組、古垣会長の式辞などあったらしい。
「らしい」というのは今なら考えられない。福岡で克明にテレビを見ていれば何でも分るからだ。当時、50年前は、2月1日に東京、大阪3月1日に名古屋とこの3つの局しか放送していない。福岡のテレビが始まるのは昭和30年代に入ってからだ。
もっとも、この50年のNHKテレビ開始も大変なさわぎであったらしい。当時から電波タイムズという業界紙を発行していた阿川秀雄さんが書いている。
NHKの2月1日開始というのも大変だったらしい。もともとそんなに早く始めるつもりでなかったNHKはのんびり準備していたところに、NTVが昭和28年8月にテレビを始める!というニュ−スが飛び込んできた。NTVの正力松太郎さんは将来の主力はテレビだ!と信じて準備していたらしい。
機械もソフトもアメリカから買えばいい、とにかくNHKより先に始めよ。そういうことだったらしい。驚いたのはNHKだ。公共放送の面目にかけても民放より後から始めるわけにはまいらない。8月の半年前に始めろ、ということになった。
そして体だけが自信の我々若者も入れて全国的大動員をかけたのである。
だから内容の良し悪しよりもとにかく間に合わせることが大事だった。そうそう当時はすべてナマ放送だから、準備が出来なければ「しばらくお待ち下さい」というパタ−ンを出した。そのパタ−ンが延々実に15分、なんていう風景もあった。
テレビはこれでいいのだ、と我々も思いかかった頃、8月30日、NTVが放送を開始した。ところが民放はコマ−シャルが生命だからコマ−シャルの時刻が実に正確である。
きちんきちんと時間通りに番組が進行するので、我々はびっくり仰天!
あっという間にNHKも時刻通りに放送することになった。
もっとも当時の視聴者は昭和28年2月1日で866台だったからおしかりの電話など一本もかかってこなかった。
かくして驚天動地のテレビ開始の年はテンヤワンヤの大騒ぎに終始した。
この騒動の中に、転勤してきた私たち若い職員の方も、又大変であった。
その頃のことを、私の妻がよく「あの時ウチは母子家庭だったのよ!」といっていたが、それは間違いない。昭和28年当時の私の生活は、朝10時出勤すると直ちにヒル番組のリハ−サル、12時15分ニュ−スのあとナマ放送。1時に終るとそれから昼食。午後はスタジオで、アメリカNBCからきたテッドさんと言う先生について座学。テレビの基本から、カメラのこと音声のこと、照明のこと2時間ぐらい勉強したことはすぐその日のナマ放送に役立てるのだ。
夜は8時からの30分番組が終ると、翌日の準備をしてから帰宅。ここで、えい、めんどうくさいとそのままスタジオ泊まりとなるのもしょっちゅうで、この頃の基準外は平均して月150時間!
うちに帰ってもくたびれているからメシもそこそこに就寝。朝は子供の寝姿を見ながら出勤、という有様。そこで妻がいっていた「私たちは母子家庭!」ということばが実感をもってくる。
妻も子も犠牲にする、ということの他に私たちの陥った深いジレンマがあった。
それは、仕事の専門性を失うということだ。私はドラマ志望だったが、他人との関係でとうとうドラマはやらされなかった。代りに専門的にやらされたのは歌番組である。
もっともこのことは私の反発心を生んで人間中心の「黄金の椅子」とか「歌は生きている」のような番組が生まれた。そして紅白歌合戦も又私のやるべき仕事の一つとなった。
ドラマ専用を志した私は、いつかテレビの歌番組に没頭したのである。
そして遂に部長−局長−理事−と管理者の道を歩み、遂には専務から会長へと思いもかけぬ道を歩むことになる。どちらを歩いた方がよかったか?ではない。管理者の道−それも経営者の道を歩くことになって、私のこの道は終った。
よかったか、悪かったか、それは自分でもわからない。もう一度やり直してみたい気もする。