女優が赤児のように甘えた話

松井須磨子と言えば、「復活」の主題歌「カチュ−シャの唄」で一世を風靡した新劇女優第一号で、愛人で演出家の島村抱月が急死した後、自害したことでも広く知られている。当時の満天下を驚倒さした。それが証拠にその日は号外が市中に出回った。大正8年1月5日。享年34歳。

坪内逍遥が欧米の演劇視察旅行から帰国後、文芸協会演劇研究所を創設し、松井須磨子はその第一期生として入学してきた。その演技指導にあたったのが、島村抱月であった。その後島村抱月は逍遥と人生観や芸術観の違いから逍遥の演劇協会を脱退し、須磨子らと芸術座を旗揚げし、全国を巡行するにいたる。

最後の舞台は新富座での「お艶殺し」(谷崎潤一郎原作)であるが、後世の人々は「復活」の須磨子の印象が強い。素人ぽい歌いかたではあるが、それがかえって田舎娘のカチュ−シャにぴったりで、人気が沸騰した。美人ではなかったが、当時の女性としては大柄であったので、舞台では見栄えがした。

抱月と須磨子は最初、師弟関係にあった。抱月は逍遥との演劇の方向性に関して、意見が対立し母校早稲田大学の教授を辞し、妻子を捨て、逍遥に背いて須磨子と同棲生活に入った。 私生活では、須磨子は料理は不得手で、島村抱月と牛込倶楽部で同棲生活をしていた時などは、「今日もコロッケ、明日もコロッケ」 ではないが、毎日が納豆であった。そしてその藁つとが山のくらいに山積してあったと言う。

日頃、抱月に対する須磨子は、甘えん坊で「先生」と呼ぶ声がいかにも艶性を帯びていて、劇団の周囲の人々を辟易さした。でもそうした辺りの思惑など一向に気にせず、文字通りの相思相愛の仲であった。先生である抱月は、赤児にたいするような寛大さで須磨子を包んだ。ある時など「先生」と呼ばれた抱月は、原稿用紙に向かってペンを走らせていたが、中断して立ち上がって行くと戸の隙間から、「先生、カミ、、、、、」と中から訴えた。

抱月はわがままな須磨子と団員との板挟みにあいながらも、5年間外国の脚本を上演して、国内はもとより、朝鮮、満州まで巡業して回った。そのテ−マは個我意識、男女問題、近代的結婚観、社会問題に触れるものであり、上演種目33、上演日数880日、上演場所は195個所に及んだ。

当時猛威を震っていたスペイン風邪がもとで、大正7年11月5日あっと言う間の頓死であった。演劇活動のみならず、愛欲の生活のパ−トナ−を一瞬にして失った須磨子は、絶望の淵に立たされた。将来の希望を展望も描けず、その2月後に抱月の後を追うようにしてこの世を去った。

この牛込倶楽部にその頃住んでいたのが、歌舞伎研究家の飯塚友一郎で、事件当日のことを目撃している。飯塚友一郎は坪内逍遥の女婿である。勿論その頃は、独身であったが因縁の糸に結ばれて居た不思議さを覚える。

松井須磨子の墓は故郷、長野県松代の生家にあるが、その墓域に有馬稲子が「女優須磨子の恋」(1975年)に主演したことから、碑を建立した。