立川澄人(清登)

 自分が脚を折ったので、瞬間頭に浮かんだのは、その昔NHKテレビでレギュラ−の番組をもっていたバリトン歌手、立川澄人さんのことである。この骨折のこともあって、のちに立川清登(スミト)と芸名を変えているが、終始一貫明るいキャラクタ−で人々を魅了した。

 その立川澄人、大分県の出身、芸大を卒業してきわめて明るい個性のバリトン歌手として舞台にテレビにその存在をいっぺんに認めさせた。何しろ明るい、「おはよう」と挨拶して「さようなら」と別れるまでその顔から微笑が絶えない。誰からも「タ−ちゃん、タ−ちゃん」と愛された。

 立川さんのテレビ初登場は、昭和35年の「音楽をどうぞ」というお昼の番組だった。

 そして誰にも負けない明るいキャラクタ−はたちまちテレビの視聴者を魅了した。立川さんのよさは、朗々たるバリトンの歌声にあったことは勿論だが、もう一つの武器は演技力だった。クラッシックの歌手は大体、直立して朗々と歌うのが主体で、演技力については疑問符の着く人が多かった。(もっとも、かのモンセラットカバリエさんのように、肢体、演技力はとても理想的とはいえないが、その強弱を実にうまく使った歌唱は、それだけで役のすべてを表現しつくしてしまう。演技力とは歌唱力を含めたすべての能力だと、つくつ゛く感心させられる人もあった。

 立川さんは、本当に体がよく動いた。歌のもっている意味に合わせてある時は軽妙に、ある時は重厚にお客をうならせた。彼の「魔笛」におけるパパゲ−ノの役は、恐らく日本人歌手としては誰しもNO1の称号を与えたであろう。彼はその他にも郷土大分の民話から創作した「きつちょむさん」(吉四六とも書く)土人のオペラで大好評を博したのだった。

 今、その頃の出演歴を眺めてみると、昭和35年から6年間「音楽をどうぞ」、43年から7年間「世界の音楽」といつ゛れも長寿番組をつづけている。昭和52年からなくなる昭和60年までは、小学生むけの「うたってゴ−」をこれ又長寿である。

 如何に立川さんが、多くの人に愛されたか又、抵抗感を覚える人がいかに少なかったかよく分る。

 彼が足を折ったのは、その初期の頃、「音楽をどうぞ」の時である。彼は友人たちと一緒に、年明けの2月、蔵王に出かけた。名手だったに違いない立川さんもこの時、ころんで足を折ってしまった。

「立川さんが、足を折った!」電話でその報をうけて我々はうろたえた。文字通り、司会者であり、歌い手であり、演技者でもあった立川さんが出られないのである。

 この時の記録を見ても細かいものが残っていない。私の記憶では「立川さんなしではやれない。包帯まいても出てもらおう」というのが皆の意見であった。立川さんは、グルグル巻きの脚でたしか松葉杖をついて毎週出演された。

 今になって分る。あの時、骨折の痛みに耐えながら、ニコニコしながら歌い、しゃべる−それはどんなに大きな負担だったろう。

 今になってよく分るのだが、骨折はそう簡単に治らない。だが彼はその痛みに耐え、不自由を忍びながら、一生懸命に番組のホストを完走した。いつものようにニコニコしながら明るい会話を交しながら、、、、、。

 立川澄人(のちに清登)さんは、昭和60年の大晦日に亡くなられた。当時は放送総局長であった私にも大ショックだった。

 歌手としてのタレントとしての才能に恵まれた立川さんには、もっと長生きして円熟の味を出してもらいたかった。

 今私は骨折後のニハビリに励みながら、その頃の立川さんをしみじみと思い返している。「おしい人をなくした!もっと活躍してほしかった!」その思いが沸沸と湧いてくる。

 自分の骨折で人の骨折を思い起こすというのも変な話だが、一人の歌手の輝かしいばかりの絶頂期に起ったトラブルを、いささかも人々にマイナスを感じさせずにスタ−として全うしえた立川さんのさわやかな心情をたたえたいのである。