とんだ初恋の相手

 高見 順の初恋の相手は、本郷にあったエトア−ルというカフエ−にいた19歳の可憐な女給であった。高見 順の親友でもある新田 潤によると、「面をかぶったような顔をした女の子」だと高見の小説「女体」の跋に書いた。

 ペンネ−ムは共通に「じゅん」と名づけようとふざけ半分に「順」と「潤」にしたくらい同人雑誌時代から二人は親しかった。

 高見 順と新田 潤はエトワ−ルに日参していた。新田 潤は高見に秘して彼女に言い寄り、きっと肘鉄を食らった恨みでもあって、このような悪態をついたに相違ないと高見は推測する。

 ある日、エトワ−ルに住込みの彼女が店をやめて家へ帰らねばならない事情になったと高見に告げる。聞けば彼女はXXXXの妹で両親がなく兄妹二人きりで暮らしていたのだが、兄が厳格すぎて面白くないので家出し、ひそかに女給になっていたのが知れてしまったのだという。

 彼女の荷物は小さい風呂敷包みにマンドリンであった。高見 順はマンドリンを持って駅まで彼女を送ることになった。送る途中でタクシ−が事故を起こした。車を変えてくれといわれて、雨の降る夜の街に立ったが、高見はこのままで別れてはいけない謎のように感じられた。そして遂に二人は宿屋に泊まってしまった。この時高見 順は童貞を失った。

 貧乏だった高見 順は宿賃を持っていなかったので、彼女が支払った。勘定のあいだ高見 順は恥かしくて便所に隠れていた。その日再会を約して、亀戸駅で別れた。

 数日後彼女から手紙が来た。高見 順は喜びに震える手で封を切ったが、忽ち絶望で青ざめてしまった。

 その手紙の内容は「兄が決めた縁談が待っていて長岡にお嫁にいく身となったから、このまま会わないでお別れしましょう」という文面。

 高見 順は彼女のいる習志野へ急遽赴き、兄の住所を突き止めた。草葺きの大きな農家に間借りしていた。庭先に彼女の先日の足駄が干してあった。高見 順はその切なさに息を飲んだが、さすがに乗込む勇気が出ず、百姓家の前の家に飛び込んだ。

 高見 順は何と言って話かけ、話こんだか忘れてしまったが、そこのおかみさんから、絶望を致命的にさせる話を聞かされた。

 彼女は兄が手こずっている不良少女で東京へ出ては情人をつくり、その情人が今まで幾人押しかけてきたかわからないという。

 高見 順は間抜けた情人づらをおかみさんにみせているのに堪えられず、怱怱にして立ち去った。その日も彼女は東京に出たとおかみさんに知らされた高見 順は名状し難い想いを懐いて東京に戻った。それ以来彼女に会ったことはない。

なんと馬鹿な初恋だろう、妻が知ったら自分に対する軽蔑を更に深めるに相違ないと付加えている。