石川啄木の負けん気な話
金田一京助は、生前ひとに会って話をすると、きまって石川啄木、アイヌ語、国語改良の話に終始した。別けても啄木との交友関係に触れると、時に涙を浮かべて語った。次に述べるエピソ−ドは啄木が盛岡市の高等小学校に入学した明治28年、10歳。金田一京介は14歳で、4年級の春のことである。
金田一京助の同級生に伴われて来た啄木は、6つか7つ位にしか見えない、小さな左右の頬っぺたと、おでこが、柔らかに盛り上がって、ゴム人形の面立ちそっくりな、しかし牛乳の肌細な、くるくるつと円い目をしばたく可愛らしい子供だった。
金田一京介はこの子はまさか高等小学校に入学するんではあるまいと心の中で思って、友人に聞いてみると、「ううん、この人は幼稚園に入るのを間違えてここへ来たの。乳母要らず(ゴムの乳首を取り付けた牛乳ビンのこと)から、やっと放れて来たの」とからかうと、啄木は相手の腕を引っ張ったり、胸へ飛びついて顔を打ったりした。
皆が啄木を赤ん坊くさいところがあるので、頭をなでたりしてからかうと啄木は飛び掛かり追っかけて行く。それまで傍観していた金田一京介もそれにつられて、ぽつちゃりしたその両頬の上に、おっかぶさるようにのっかっている白い丸いおでこへ、ちょいと人差し指の指頭をさわった。同時に「このでんぴこ!」(おでこの意)と覚えず言った。
すると、啄木は他の友達を追いかけるのをやめて、憤然と金田一京助に食ってかかって来た。金田一京助の方は労る気があるのに、啄木は真剣なものだから、金田一京助はたじたじとなり、ぐんぐんあとへ圧されて、溜りの壁まで押されて行った。背中が壁へぴたりと着いても、もうあとは行けないのに、それでも、拳固をかためて、圧するや衝くやらすること止めないものだから、あばら骨やお腹のあたりが拳固ですこし痛かった。「おや、おや、赤ん坊の様な子だが、割に手ごわいところのある子だな」と少し興ざめたのが、金田一京助のその時の正直な第一印象だった。そしてこの負けじ魂と真剣さは啄木のその後の一生を象徴しているようだと言う。