天丼の借金を払う話

芸能家にして随筆家の徳川夢声が、浅草の福宝館で活弁をしていた大正2年頃の話である。その頃の月給が10円。大黒屋の天丼は15銭、楽屋に取り寄せて一度口にして美味いのなんのと思ったが、支払わないうちに急遽、福宝館を去るに至った。

そのまま数年が過ぎた。毛頭踏み倒すつもりはなかった。絶えず「天丼、15銭」の2語が良心の呵責として付きまとった。一言にして言うと、払いそびれたのである。

溜池の葵館で、徳川夢声として名声が上がるに従って、ますますこの借金が気になりだした。そして或る夜、意を決して大黒屋の暖簾をくぐった。

「僕こちらに借金があるんで来たんですが、どなたか僕を覚えていませんか」すると、帳場の女将や店員一同、食事をしていたお客が皆夢声のほうを怪訝な顔をして、見つめていた。

「その、5年前に、当店の天丼をひとつ食べたんですがね」 と言うと「へえ?」と女将は言い、そして何方様ですかと尋ねる。「僕ですか、ホラ第二福宝館に、以前、福原霊川て言う弁士がいましたろう」という答えに女将は「さあ?」と言ったきり覚えていない。「じゃ清水霊山ていう人覚えていますか?」「あああ?覚えています。覚えています」「その弟子で、僕、福原霊川っていってた男なんですが」「なるほど、そう言えば、どこかで聞いた事のあるお名前で」「その僕がです、この店の天丼を一つ食ったままになっているんです」「ああ、さようで?」「で今晩払いに来たんですが」

女将はしばし呆然としていたが、莞爾として「いいえ、5年も昔のことですもの帳面を調べるっていったって大変ですし、よろしゅうございますよ」「いや、それは困ります。貴店の方で分からなくても、僕の方はわかっているんですから、ぜひ払わせて下さい」「そうですか?でもあの、、、」

そうしている間に夢声は50銭出した。壁間にかかっている値段表を見ると天丼は30銭になっていた。この間に第一次世界大戦勃発して、終結していたのであるから、むべなるかなと思ったという。

女将は夢声に問う。「あの頃は15銭だったかしら、それとも20銭だったかしら」「15銭でした」「では、35銭おつりを」「いや、5年間の利息がありますから、現在の相場でとって頂きたいのです」「オホホ、利息なんて、とんでもない」

結局、夢声はいくら釣り銭を貰って店を出たか記憶にない。この点アヤフヤなのは千秋の痛恨事だと夢声記している。

徳川夢声の本名は福原駿雄であるが、赤坂溜池の葵館に入り館側が館名に因んでつけたものである。