国民歌謡「隣組」で親しまれた=徳山たまき

「とんとんとんからりと隣組 格子を開ければ顔なじみ 廻して頂戴回覧板 知らせられたり知らせたり」

この国民歌謡は、昭和15年に平均10戸程度を単位とする隣組が組織されたのを機に歌われたものであり、歌手は藤沢出身の徳山 たまきである。たまきは王偏に連をつけてたまきと読ました。論語浩治長之巻が出典。作詞は岡本一平、作曲は飯田信夫 この歌詞を目にすれば、年配の人たちなら、つい口ずさんでかって歌ったことを思い出すであろう。明るく、庶民的な歌詞で歌い易いところから、戦時中に国民に愛唱されたものである。

歌謡曲の誕生は1914年の「カチュ−シャの歌」あたりが嚆矢とされるが、歌手では、佐藤千夜子、徳山たまき、藤山一郎らが初期の歌謡曲の歌手であり、いずれもクラシックからの転向組である。

当時は歌謡曲はクラシック音楽に比べて一段低く一般に見られていた。だが1934年(昭和9年)12月に徳山たまき、藤山一郎、渡辺はま子、小唄勝太郎が月例の皇族懇話会に呼ばれて、歌ったことから、「空前の御前演奏」と新聞に報じられ、歌謡曲のステ−タスが上がったとされる。

徳山たまきは明治36年、藤沢で徳山正治と母ノブの間に生まれた。父親は明治元年に青森で生まれ、横須賀の湘南病院に医師として勤務の後、藤沢で開業、町会議員や藤沢医師会長を務めたが、昭和12年に他界。

母ノブは音楽に精通し、ピアノや声楽教えていたというから、たまきはこうした母親譲りの才能を受けついたものと思われる。

徳山たまきは開校したばかりの逗子開成中学をへて、上野の東京音楽学校(東京芸術大学)の4年生本科声楽科に入学、大正12年のことである。ドイツ人のネ−トケ レ−ベル夫人、沢崎定之、船橋栄吉から指導を受けた。日本で最初にベ−ト−ウ”エンの第九を全曲初演奏したのは、沢崎(バリトン)船橋(テノ−ル)が務め、在校生全員がコ−ラスに参加した。徳山たまきもこれに参加したものと思われる。会場は校内の奏楽堂。

徳山たまき(バリトン)は昭和5年、青年会館で第九を近衛秀麿の指揮の下で歌っている。昭和10年には日比谷公会堂で近衛秀麿指揮、新交響楽団の下で、さらに昭和15年にはロ−ゼンストックの指揮で歌っている。

徳山のクラシック音楽の生活の頂点は昭和10年である。3月に軍人会館(九段会館)で「カルメン」が公演されている。カルメンには佐藤美子、徳山はエスカミリオ役で出演し賞賛された。この「カルメン」にメルセデスとして出演した異色と思われるのが、杉村春子である。杉村は最初は声楽家を志望していたのである。

6月にドイツ映画「未完成交響楽」をオペラ化した「シュ−ベルトの恋」に藤原義江(テノ−ル)、徳山たまき(バリトン)、下八川圭祐(バス)、長門美保(ソプラノ)、渡辺はま子(ソプラノ)、指揮は高木和夫、オ−ケストラは東宝管弦楽団(東京交響管弦楽団)が出演。

この中に渡辺はま子がいるのは、徳山たまきが音楽学校を卒業した年に創設した武蔵野音楽学校(武蔵野音楽大学)の教壇に立った時の教え子だからである。この音楽学校時代の教え子に、「旅がらす」の中野忠晴、「山の人気者」の松平 晃がいる。渡辺はま子は1999年12月に89歳で死去。年が明けて1月12日の新聞にその死が報道された。

徳山が歌謡曲の世界に入ったキッカケは、流行歌手として活躍していた佐藤千夜子のピアノ伴奏をしていたことによる。千夜子は徳山をレコ−ド会社に紹介した。「叩け太鼓」でビクタ−からデビユ−したのは、卒業後三年目のことである。

「今宵名残の三日月も 消えて淋しき相模灘 涙にうるむ漁り火に この世の恋のはかなさよ」

この歌は映画「天国に結ぶ恋」の主題歌として、大学時代の同窓生、四谷文子とデユエットで歌って、人気を博した。作詞は柳水巴(西条八十)作曲は林 純平。ちなみに西条八十の母親の生家は、徳山たまきの生家と指呼の間にある。

この「天国の恋」は若い男女の心中事件を映画化したものである。昭和7年大磯の坂田山の雑木林で、大学生と22歳の女性が、芝の教会で知り合って結婚を約束したが、反対され心中して清純な恋を貫いたのが当時話題になった。なお二人の比翼塚が大磯鴫立庵にある。

昭和10年に古川緑波が東宝の専属になり、一座を組んだ時、ロッパは「歌う弥次喜多」を思いついた。そして弥次役は自分がやるが、喜多役は徳山たまきに決めて、直接交渉しにいったら、引き受けてくれた。

徳山たまきにとって芝居は生まれて初めて、それもちょんまげつけての喜劇。初日は舞台のソデで震えて、「大丈夫かな」と心細い顔してロッパの顔を見ていた。「なアに、大丈夫」と力つ”けた。そのうち一週間も経たないうちに、すっかり度胸がついてしまって、ふざけたり、セリフにないことを言ったり、平気でするようになってこんどはロッパの方がびっくりしてしまった。

ロッパは一流の歌手たまきをむこうに廻して舞台で歌えるので、内心己惚れていたが、レコ−デイングして聞いて改めて、その実力の差の大きいのに自信をなくしてしまったと言っている。このことが当たり、たまきはコメデアンとしての道が開けた。有楽町を皮切りに、名古屋、京都、宝塚の各地で公演、3年に亙るロングランを続けた。

昭和16年11月に慶応病院に入院。敗血症で17年2月2日死去。父親を追うような死であった。ロッパは徳山たまきの死を聞かされて、痛哭。ロッパの部屋にたまきの写真を飾って、慰霊祭を行う。桜井長一郎が「徳さんアウ”エマリアを贈ろう」とウ”アオリンで弾いた。

「歩け歩け 歩け歩け 南へ北へ 歩け歩け 東へ西へ 歩け歩け 路ある路も 歩け歩け 路なき路も 歩け歩け」(高村光太郎 作詞 飯田信夫 作曲) そして「歩け歩け」のレコ−ド、元気で無邪気な声を聞いたら、ロッパは思わず泣けてきた。

クラシック音楽の世界から、歌謡曲、軽演劇の世界に転身して成功を収めたが、これからと言う時の夭逝はその後の日本のミユジカルの発展を遅らせたことは間違いない。そのことを一番よく知っていたのは、古川ロッパであった。そしてこのコンビが徳山たまきの死によって解消されたことは、その後のロッパの進路にも影響がすくなくないと思われる。

ロッパは言う。「僕が「笑いの王国」を脱退して、東宝に入り、第一回にこの「歌う弥次喜多」が出せなかったら、いいや、出せても、喜多八の役に、徳山たまきが出てくれなかったとしたら、僕はいきなり丸の内で、成功したとは思えない」

母ノブは83歳で昭和31年に死去。妻の寿子は水の分量を変えたガラスコップを、木琴のように叩く創作楽器の第一人者として長年活躍し、平成4年に89歳で亡くなっている。

徳山家の墓地は、藤沢の第一国道沿いの生家から目と鼻さきの常光寺にある。なおここには野口米次郎一家の墓域もある。